【第124回】 感じる体 − 体の感じを大切に

技が効いたか効かなかったの判断は、初めのころは、相手を倒したり押さえたりすれば効いたと満足していたものだが、長年稽古を続けてくると、相手を投げたり倒すことにあまり執着しなくなり、興味もなくなってくる。かわりに、それまでは気がつかなかった「崩し」を大事にするようになる。「崩し」がなければ、技は掛かりにくいし、崩さずに掛ければ争いになるということが分かってくるからである。また、崩しさえすれば、後は相手が自分から倒れてくれることも分かってくるのである。

つまり、相手が倒れるということは、相手を倒すのではなく、相手が自ら喜んで倒れることだということである。従って、相手を倒すことは目的ではなく、崩しなどの「わざ」のプロセスの結果でなければならないことになる。

合気道の相対稽古での技の形稽古で、相手を技で倒すために大切なことの一つは、攻撃してくる相手と触れた瞬間、触れたところでくっつけてしまうことである。くっつけて相手と一つになることによって、相手を自分の一部とすれば、自由に捌くことができるので、倒すことも押さえることも容易になるということになるのである。開祖は合気道は引力の養成であると言われているが、このことも指していると思う。

しかしながら、相手と触れた瞬間に相手をくっつけて、一つになるのはそう簡単なことではない。相手に触れた手先は柔軟で真綿のようでありながら、相手が力を入れてくれば、その力を受け止めるだけの強靭さという、真綿と鋼の極端に異なる両面を備えた手でなければならないからである。

また、触れた手先だけでなく、腕、肩、背中、腰、腹、脚などの体の各部分でも敏感でなければならない。手先、指先や腕に力が籠もり、力んだ状態では敏感でなくなるので、相手にくっつくことは出来ず、弾き飛ばすことになる。自分の体重、手首や腕の重さ、顎の重さを感じられるように、力まず、力が貫けなければ、手先を腹に結ぶことはできない。

腕は水の中にあるがごとく重く、しかも浮くがごとく感じられれば、所謂「天の浮橋」に立った手ということになるのだろう。この状態になると、相手と接している手先は相手にくっ付き、相手の力の強さや力の出し方、攻撃の仕方なども感じる一方、自分の手の動き「わざ」が相手にどのような影響をあたえ、それがどのように相手を崩し、そして相手が倒れていくのかが分かるようになる。無理に力めば、相手が折角持っている手との結びを切ってしまうことになる。

手先は体のセンサーであるとも言えるので、手先は敏感でなければならないし、更に敏感になるような稽古をしなければならない。手先はセンサーとして、相手を察知し、脳に情報として伝え、脳からの指示で、体幹(腹や腰)からの力が手に届き、その届いた力を持って、今度はその手が投げたり押さえたりするという仕事を、手先はこなすという大事な役割を担っている。

このプロセスが迅速に行くためには、この部位を敏感にすることと、頭(脳)を柔らかくすることだろう。相手を投げることばかりを考えたりしていると、相手を感じるセンサーはOFFになってしまうし、脳も働かなくなり、鈍感になってしまい、体も硬くなって動かなくなってしまう。

技を掛けてそれが正しかったかどうかは、自分で判断すればよい。技をかけて、体がよしと感じれば、それは正しいやり方であるといえる。体は嘘をいわないからである。

敏感な体にするためには、体のカスを取って、柔軟にし、そしてその体の感じを大切にすることである、前述の他にも、例えば、足が地に付いたときの腹のしまり具合;踵を踏んだときの脚裏、太腿裏の筋肉の張りと地からの抗力;息を入れて、肩を落とし、腹壁、胸壁をゆるめたときの体の重み;息を吸ったときの筋肉と関節の緩みと伸び、等々幾らでもあるだろう。

もちろん、体に感じるのは、触覚だけではない。視覚でも聴覚でも、それは目や耳だけで感じているだけではなく、体でも感じているはずである。何故ならば、光も音も、そして触覚も、すべては波動であり、響きであるからである。合気道は、宇宙からの響きと同調させる「山彦の道」とも言われる。

宇宙からの響きを感じられるように、体を少しずつ敏感にしていく必要があるだろう。そうすれば、開祖が言われる「宇宙組織を我が体内に造り上げて行く」(「合気真髄」)ことになるだろう。

参考文献 『合気真髄』植芝吉祥丸監修  八幡書店