【第109回】 稽古には段階がある

かつては合気道に入門を許可されるためには、柔剣道の有段者でなければならなかったと聞いたことがある。恐らく開祖は、体ができていなければ武道として合気道を教えるのは難しいと思われたのだろう。開祖は晩年でも、体ががっちりした稽古人に目をかけられており、専門家になるよう勧められてもいた。

私が入門した昭和36年頃、開祖は、「合気道は気育、智育、徳育、常識の涵養」であると言われていたが、その数年後には、「合気道は気育、智育、徳育、体育、常識の涵養」と体育が加わった。私が入門したときは、ほとんどの先輩達は、その前に武道やスポーツをやっていて、それに満足できなくて合気道に入ってきた人達であったので、体はすでに出来ていた。だが、私が入った頃から年々、それまでに体を鍛える経験をしてないような人達が入って来るようになったので、大先生は体育を加えられたのであろうと思う。

合気道には「形(かたち)がない」とか、合気道は「神が生成化成しようとされている世界をつくるお手伝いをする」「宇宙の気に合わせる」等々高尚な使命や目的を持っているが、まずは合気道の体をつくらなければ、何も出来ないし、その高尚な目的も達成できないだろう。

合気道は、技の形(かた)を繰り返し々々稽古する方法をとる。開祖のように合気の体と心ができれば、この技の形から気の形(気形)の稽古ができるようになる。開祖の晩年だが、先輩が大先生(開祖)の真似をして、相手に触れないで相手を倒す気形の稽古をし、大先生に見つかって大目玉を食ったことがあった。その時、大先生は触れずに倒れるような稽古をしてはならん、しっかり力を入れてやれ。と言われていた。気形の稽古など、お前らにはまだまだ早いということだったのだろう。

合気道の技と稽古法は、合気の体が作られるようにできている。但し、やるべきことを順序よく、段階を追ってやっていかなければならない。人には少しでも上手くなりたい、よくなりたいという上昇志向がある。これが人類を進化させ、文明を切り開いてきたわけだが、その反面、目先のことにこだわり、焦ったり、急いだり、他人に負けまいと、やるべき段階や順序を飛び越してしまったりする。しかし、やるべきことをやらなければ、いい結果が出ない事になる。

私が入門した頃は、今の一教、二教、三教、四教を、『合気道技法』にあるように第一教、第二教、第三教、第四教と言うこともあった。古い先輩達は第をつけていたが、だんだんと第が取れて呼ばれるようになってきた。

しかし、「第」を取ったことで大事なことを見失うことになってしまったのではないだろうか。思うに、今の一教、二教、三教、四教は技として稽古されているが、第一教、第二教、第三教、第四教は合気の体をつくるための鍛錬法、鍛錬の順序と段階であったのではないか。第一教は「腕おさえ」と言われるように、腕を鍛えるための稽古法であり、第二教は「小手廻し」で手首を鍛え、手首で攻めて相手を倒す練磨法、第三教は「小手ひねり」で手首肘関節の鍛錬と、この部位を攻めて相手を倒す練磨法、第四教は「手首抑え」で手首を鍛えると同時に、手首を抑えることによって相手を崩す練磨法だったと考えることができる。

その証しの例として、或る時、本部道場の稽古時間で肩取り二教を稽古しているとき、突然、大先生(開祖)が道場に入って来られ、その時間を指導されていたM師範に、「なんの稽古をしているんだね」と、尋ねたのに対し、M師範は「はい、第一教でございます」と応えたのだ。我々は二教をやっていたので、なぜ二教と言わないのだろうと、仲間同士で顔を見合わせたものだった。稽古の後、先輩に聞いてみると、「あの時、二教と言っていたら、大先生に"まだ、一教も満足に出来ていないお前たちに二教は教えておらん"と大目玉をもらっただろう。」と言われた。大先生はまず、しっかりした腕をつくり、関節ではなくしっかりした腕で「二教」を決めろということだったのだろう。確かに腕がしっかりしていなければ「二教」など効くものではない。

もう一つの例としては、『合気道技法』で先代道主が、「小手返し」は第二教であると言われていることである。つまり、小手返しは手首を攻めて倒す鍛錬法ということであり、第二教というのは、今の「二教」ではなく、またただの技ではないということになろう。

確かに腕がしっかりしていなければ、小手回しの関節技「二教」も効かない。「二教」を効かしたければ、第一教で腕を鍛えることである。つまり、絞る稽古をすることである。「小手返し」(第二教)はなかなか効かないものであるが、その最大の原因は第一教での腕の鍛えが少なく、弱いことにある。しっかりした腕が腹に結び、相手の上腕と小手と手首を十字(コの字)に出来る力が出てこなければ「小手返し」は効かない。

第三教は、第二教、さらにもちろん第一教が出来ていないと出来ない。腕や手首がしっかりしていなければ出来るわけがない。「小手返し」(第二教)も相手が第二教で手首を鍛えていれば、頑張られてなかなか効かないものである。その時は、次の第三教の「小手返し」、つまり手首ではなく、手首と肘関節を攻めればよい。技の掛け方にも段階がある。

第四教も第一教、第二教、第三教がきちっとできていなければ出来ない。第四教は、手首を締めただけで相手を崩すようにならなければならないわけだから、第一教、第二教、第三教をよほど鍛えないとならないことになる。

いわゆる基本技といわれるものは、思っているよりも遙かに大事である。技そのものはシンプルといえるが、その中にあるものは奥深く、重要である。その基本技から、重要なことを一つ一つ順に見つけていき、それを土台にさらに重要なことを見つけていくようにしなければならない。急いだり、焦ったりして、やるべきことをやらないと、上達は止まってしまう。

基本技には合気道の技を使う上で不可欠の要素が隠れているが、例えば、「入身投げ」には、入身(身を入れること)、転換(相手と同じ方向に身(腹)を向ける)練習である。どうしても相手を倒すことに一生懸命になり、この稽古をやらなければ、いくら稽古しても入身投げはできないし、武器取りなど先へ進むこともできない。

また、技ができるためには、呼吸力がつかなければならない。言葉を代えれば、呼吸力の程度にしか技はできないのである。従って、技を稽古するのもいいが、呼吸力をつける鍛錬法である呼吸法をしっかりやることである。諸手取呼吸法、片手取呼吸法、座技呼吸法等である。

上達するつもりなら、やるべきことを順序立てて、段階的にやらなければならない。ただやればいいということではないようだ。