【第108回】 無理しない

合気道は相対で技の形を稽古し、体をつくり、精神を磨いていく。相対稽古であるために、相手に負けまいと腕力を使って力んでしまう傾向がある。力むというのは、体の片々の力を使うことであり、体の表面の筋肉「浅層筋」を使い、息をつめてしまうことである。

合気道が求めているのは真の力「呼吸力」である。呼吸力とは「天の法則に則った心(意識)と地からの力を受けた体、それに息(呼吸)を一体化し、そこから出てくる遠心力と求心力を兼ね備えた引力を持った力」と言えよう。従って、真の力を求めるなら、天地と体と息が一体化した力の要請が必要になる。

近代社会は西欧文明が世界の主流を占めている。パワーの社会、若者文化であり、統合ではなく分解、分析の文化である。力をつけるにも、必要な部分に短時間で西欧流の効率的トレーニングをする。ジムに通ってマシーンやバーベルなどの道具を使って筋肉をつけたり、家でトレーニング器具や鉄アレーなど使って腕力を鍛えたりすることになる。

スポーツなど、西欧文化は忙しい。スポーツは勝負で勝つことが大事であるので、体を鍛えるのものんびりとはできない。若いうちに勝たなければならないので、あまり時間的余裕はない。世界的な試合では、負ければ選手生命はそれで大体閉ざされるといってよい。スポーツでは、勝たなければならない。また今回勝っても、次に勝てるという保証はないので安心できない。アドレナリンを常に出し続けていなければならない大変な世界である。

勝ち負けにこだわってくると、稽古の真の目的を忘れ、とんでもない方向に突き進むことになる。柔道も柔道の形の技で勝負するのではなく、足を取ったり、逃げ回ったり、柔道というよりは柔道衣を着た格闘技となってしまった。合気道には勝ち負けの勝負はないが、争いになる危険性は十分ある。もし勝つための合気道の稽古をしていけば、柔道のように本来の思想や形から逸脱し、腕力がものをいう合気道衣を着た格闘合気道になることになる。

合気道は相対稽古で負けても全然構わない。弱ければ相手に抑えられ、投げられるのは当然である。スポーツと違い、今負けても次に出来ればいいし、いつか出来ればよい。武道は生命が長い。スポーツのように20、30歳がピークではない。

武道では、50,60歳はまだまだ鼻ったれ小僧と言うことである。80、90歳ぐらいの人生の終焉直前に、何をどのくらい出来るかが問われるのである。従って、焦らずに地道にやるべきことをやっていくことである。途中、他人に追い越されることもあるだろうし、投げられ、抑えられ、翻弄されることもあるだろう。しかしそれは事実と認め、それを糧にし稽古を続けることである。

まわりは忙しく慌しく動いていても、真のライバルである自分との戦いには、時間は十分あるはずだ。無理なく、自分に合った、自然で無理の無い稽古を続けるべきである。マシーンや鉄棒や鉄アレーなどを使うのではなく、木刀や杖を振った方がよい。何故なら、80,90歳になってマシーン、鉄棒や鉄アレーを使った稽古は続けることができないだろう。

続かないことは無理があり、やるべきではない。そこへいくと木刀や杖はいつまでもできるだろう。稽古も然りである。歳をとってできないことは、無理があるので極力避けるべきである。従って、歳をとってから若者がやるような稽古をするのも、無理があるからやるべきではない。

合気道の体をつくるためにも、稽古は無理なくやるのがいい。