【第95回】 魂ふり

自主稽古でもそうだが、道場で稽古をする場合も、気持ちが稽古に集中しなければよい稽古はできない。道場に行くまでや、稽古を始める前までには、いろいろなことがあるはずだ。仕事でのこと、家庭でのことなど、いいこともあれば腹の立つことこともあるはずである。それを稽古に引きずっては、やる気も起きず、よい稽古が出来ないだけでなく、自分が怪我をしたり、相手を怪我させてしまったりしかねない。
そのような事故が起こらないためには、深い稽古ができるように、気持ちを充実させなければならない。気持ちを充実させるとは、仕事や家庭のことに行っている気持(魂)を、自分の体に呼び戻し活力を与えることである。

この魂を呼び戻すのが「魂しずめ」と「魂ふり」の鎮魂である。神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが「魂しずめ」である。「魂ふり」は魂を外から揺すって、魂に活力を与えることである。

合気道の「魂ふり」では、両の手の平を、右手が下になるようにして腹の前に合わせ、それを上下にふるのである。体から出る振動を眉間と腹に感じるようにふるのである。以前は体操代わりに「船こぎ」運動をし、その後、必ず魂ふりをしたものだった。

合気道の稽古の前に魂ふりをして呼び戻すものは何かというと、「やる気」である。稽古を一生懸命やろうと思う気である。他のことを忘れて、やる気に集中することが、合気道での魂ふりの第一義であろう。やる気になれば、身体もより動くようになるし、やる気のあるのとないのとでは、体の働きは格段に違ってくる。

次に「魂ふり」によって、自己の外にある魂に触れることができ、力を得ることが出来る。「かみあそび」の状態となり、「エクスターズ」する身体が現れる。(「武道/武術/スポーツする身体・考―」(稲垣正浩) つまり自分が日常の世界から「ハレ」の世界へ、顕界から幽界へ入っていくことになる。この状態になれば、会社や家庭などの日常のことは忘れてしまうはずで、稽古に没頭できるだろう。

魂ふりと魂しずめは、表裏一体である。魂ふりで外から呼んできた魂を蘇生させ、魂しずめによってその魂を遊離しないようにする。この魂ふりと魂しずめを称して鎮魂という。

「鎮魂は、身体と魂との間の不整合を調整し、身体と魂との間の交流を自由ならしめる。その交流とは、身体と魂の間にある壁を突破するということ、形ある世界と形なき世界の間にある非連続を乗り越えることである。つまり、そうすることによって生命の全体性をつかまえることができる。」とある(岩田慶治)

身体と魂は、見えるものと見えないものであり、顕界と幽界という次元が違うものであるから、この両者の間は「不整合」であり「非連続」である。が、異次元で非連続だからこそ、反発し合わずに密接な関係を結ぶことができることになる。従って、魂を付着させる魂ふりを理解しなければ、自分の全体性(身体と魂)を理解することも、使うこともできず、摩訶不思議な力は出て来ない。魂ふりによる、身体と魂の交流で、「形ある世界」にある身体を突破した「形なき世界」としての身体、つまり「エクスターズ」の生命全体となった身体になれば、真の合気道ができるのではないだろうか。

参考・引用文献 「武と舞の根源を探る」(叢文社  瀧元誠樹)