【第81回】 既に存在している

合気道は、何か新しい「形」(かた)や「わざ」を創作するものではない。既にあるべきものを見つけ、実践するのである。開祖は、「合気と申しますと小戸の神業である。こう立ったならば、空の気と真空の気を通ってくるところの宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写し取る。そしてそれを実践する。」と言われている。

開祖は、合気は自分が創ったとは言われなかった。開祖は、「合気道とは古典の古事記の実行」「合気道は宇宙のいとなみが自己のうちにあるのを感得するものである。」などと言われている。合気道は、神代に遡って、宇宙ができた智(ひかり)を感得、実行することによって「わざ」を出すもので、既に存在しているものを探すのであるから、人間がわざわざ新しく創造するものではないのである。

2002年のノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊東京大名誉教授は、自分の業績を自身では、世間ほど評価していないようだ。理由は、自分の発見は既に存在しているものを見つけただけであり、彼が見つけなくとも後で誰かが見つけるだろうから、早いか遅いかの違いがあるだけだという。

氏がそのことに気づかれ、率直に言葉に出されたのは非常に偉いと思うし、またそれは事実だとも思う。世の中では、すでにある人類共有のものを、少しでも早く見つけて手柄にしようとやっきになっているが、金と力があるものにとっては有益でも、それすらまだない発展途上国などにとっては理不尽だろう。

早く発見するのも大事かもしれないが、それよりも発見したものを人類共有の宇宙の遺産として、今はまだノーベル賞を取るとか、ハイテクを開発する力がないような国にも役立つように考える方が、大事なのではないか。特許料などで儲けるようなことばかり考えるとしたら、それは人類や宇宙をつくったモノ(神)に対する冒涜だろう。愛に欠けるものは、人類を破滅に導く。原爆や水爆を創った科学者はきっと後悔しているだろう。これを繰り返してはならない。

合気道も自分で新しいものを創造するのではなく、神代の世界まで遡り、宇宙創造以来から既に存在していることに気が付き、身につけ、実践していくものである。またそれを自分だけのものとしないで、人類の共通遺産として人に役立てていかなければならない。人のためにならない、愛の欠けた合気道にならないように注意しなければならない。