【第80回】 和合

合気道の道場稽古では、攻撃してきた相手に技をかけて倒す稽古をする。よほどの実力の差があるか、投げられる側が受けをとってくれなければ、なかなか上手くは倒せないものである。それで、時としては争うことにもなる。しかし開祖は「その敵対するところの精神を相手自ら喜んでなくせしめ、和合するように日々稽古しなければならない」と言われている。(道文)

相手が倒されて、それでも相手が満足するのはどんな稽古か考えてみると、次のような稽古をするときではないかと思う。まず、倒す側に、やっつけようというような我欲がないこと。上達のため、技を研鑽するために、倒した結果であること。技や動きが、無理なく自然であること。引力(呼吸力)によって、弾き飛ばすのではなく、くっ付いてしまい、一つになってしまう。そして、相手は倒されるのではなく、自分自ら倒れる。などが挙げられるであろう。

相手を倒すために技を練磨するのであるが、相手が崩れれば、後は相手が自分から倒れるようにしなければならない。相手が崩れるというのは、開祖の言葉では「相手の不足しているところを補う」からである。一教でも、四方投げでも、入身投げでも、相手の不足しているところを補うことによって相手が崩れるが、相手が崩れてからは、相手は自分で倒れてくれるはずだ。投げる方はその倒れるのを一寸コントロールするだけである。開祖はここのところを「合気道には力はいらない」と言われたのだと思う。

このためには大切なのは、相手との和合である。和合がなければ争いになって、プラスとプラス、マイナスとマイナスが接して、弾き飛ばし合いになってしまう。稽古での和合とは、相手と一つ、つまり二人の人間が一人となってしまうことである。一人になれば自分の思うように動けるわけで、和合のない二人のままでは、各々の意志で別々に動くので、争いにもなるわけである。

和合のための稽古は、体(魄)とこころ(魂)、技(テクニック)と気持ち(忘我欲)を、バランスよく使ってやらなければならない。この和合の稽古ができるようになれば、今度は地上にあるすべてのものと和合ができるように、日々修練するようにしなければならないだろう。周りにあるものを自分と関係ないと思ったり、敵視したりしてしまうのは、寂しいかぎりである。身の回りのものと自分がすべて繋がっていると思えれば、毎日が楽しくなるだろう。自分のまわりにあるものとは極力むすび、和合すべく、道場でも社会でも日々稽古をするのがよい。