【第71回】 禅

開祖はよく「禅といって別に座る必要なない。合気をやっていれば、それが禅である。」と言われていた。また昔、先輩から「合気道は動く禅だ」と聞いたことがあるが、まさしく合気道は禅でもあるといえよう。

禅では公案という問題が出され、それを座禅を組んで考えぬくが、合気道も自分に公案を与え、それを稽古で考え、反省、試し、悟っていくのである。禅では座禅を組んでいると、いろいろ妄想が湧いてきて、公案を忘れ勝ちであると聞くが、合気道でも然りである。目標(公案)を設定して稽古をするが、相手を投げたり、押さえたりすることに走ってしまったり、自分の悪い癖が出てきて、その癖でやってしまうなど、いわゆる「悪魔の声」に負けてしまい、目標を忘れた稽古になりがちである。「悪魔の声」に耳を貸さず、心を奪われないようにするのはなかなか大変である。よほど強い意志で、公案の重要性をしっかり意識し、これが上達に不可欠であると自覚しなければならない。

禅も同じだろうが、合気道の稽古の公案(目標)は、人により、またその人のレベルによって違うので、ある時点ではみんな違うであろうが、やるべきことは誰もがやらなければならない。従って、開祖をはじめ、先人が悟ったことは皆んな学ぶようにしなければならないわけである。これが「稽古」(古を見る)である。

公案は低いレベルのものから高度なレベルのものまであるが、低いところのものから着実に順を追って悟っていかなければならない。漫画のように、ある時、突然すべてを悟るということは決してない。開祖が『武産合気』や『合気道真髄』で言われていることが、いつかは分かるだろうと期待するのはいいが、ひとつひとつ公案として取り上げ、悟っていかなければ、何時までたっても分からないままであろう。

公案を見つけ、それを悟るためには、自分をそれができる環境に置くようにしなければならない。座禅は俗世界から隔離した環境の道場で、自分を観つめ、自然と一体とならんがために、深く深く瞑想に入っていく修行をする。合気道も動く禅ということならば、道場は悟りを開く修行の場であると考え、深遠な別世界にあるのだと思わなくてはならない。そして深い悟りを得るために、深く合気道の世界に入って行き、公案を追求し悟りを開かなければならない。