【第68回】 異なる質と次元

人は生命を維持するために生きなければならない。また、社会の一員としても、その社会のルールに則って生きなければならない。そのため、時には競争に参加し、争いながら生きている。しかしながら学校や会社での競争で負けてしまった者も、勝った者も、そのような生き方を必ずしも是であると思っていないだろう。無意識のうちにもっと違った生き方があり、そのための世界があり、その世界で生きたいと思っているはずである。この世に生まれてきたのも、肌の色が異なっているのも、恵まれた家庭あるいは貧しい家庭で育つのも、自分で選んだわけではなく、努力してなったものでもなく、偶然ともいえるだろうし、また何か偉大なものにプログラムされているとしかいいようがないこともある。

人は日常の生活からたまには抜け出したいと願っている。ケだけではなく、ハレの世界にも生きたいと願う。お祭りなどはその典型であるが、合気道も日常の世界ではなく別な世界、アナザーワールドのものである。合気道の道場では、俗世界の中では大事かも知れない経済的な違いや、肩書きのあるなし、体の大小、姿の良し悪しなどは意味を持たない。それゆえ、合気道の稽古の世界で、日常生活、つまり俗世界と同じようにやっていては、稽古の意味が半減するし、上達は望めないだろう。合気道の稽古では日常生活のものから離れ、それを忘れて修練していかなければならない。

開祖がいわれる合気道は、世の建て直しをするものである。遠大なものであるのだから、最終的には精神的なものになるだろうが、その前に合気道の形と技を通しての肉体的な修行をしていかなければならない。といっても、合気道の肉体的な修行、鍛錬は、日常生活のものと異なるものでなければならない。つまり、他人との戦いのためではく、自分の肉体的な能力を引き出し、それを充分活用し、自然に逆らわず、自然と共鳴できるよう、そしてそれが宇宙万世一系につながるようにしていくことである。

手先から力を出すにも、手で力んで出す手さばきではなく、体の中心や「地」から出すとか、ぶつかってはね飛ばすような力ではなく、相手と結びつくような、引力を持つ力を養成していかなければならない。つまり力の質が違わなければならないのである。

日常生活で毎日行なわれている物質社会の競争、他者との競争のために稽古をしてはならない。他者に勝つためなら、もっと効率のいい格闘技を習ったほうがいい。合気道を5年や10年やっても、闘いに使えるまでにはならないだろう。

合気道の世界、例えば道場は、幽界ともいえるであろう。お能の舞台の幽玄な世界で武道を修練しているようなものだ。合気道の稽古は、俗界、顕界を離れ、ハレの世界である幽界で真善美を追求し、自然、宇宙の息吹と共鳴させるものである。従って、合気道は日常とは異なる次元で修行しなければならない。