【第662回】  気を出し、気を感じるために

気の挑戦が続いている。有難いことに、微々たるものではあるが気が少しずつ分かってくるようである。分かるというのは、気が出るようになることや感じる事だろう。また、気が分からなければ、合気道が目指す、宇宙の営みに則った技はつかえないし、宇宙との一体化は不可能であろうと確信するようになった。更に、気が分からなければ、魂も分からないし、それ故、魄の稽古を脱却し、魂の稽古に移ることもできないと思うようになる。

気を出し、気を感じるために挑戦している。主に、呼吸法と正面打ち一教を繰り返しながら、気を出そう、感じようと稽古しているのである。道場での相対稽古と一人稽古である。気の稽古のような段階に入ると、一人稽古が必須になると考える。一人で気の理を考え、予測し、息と体を法則に則ってつかい、その反応を感じ、そして修正や追加補充が出来るからである。相対ではそんな余裕はないので、気の稽古をしようとすれば、一人稽古が避けられないことになる。
しかし、一人稽古で上手くいったからといって、一人で満足していても意味がない。その気が稽古相手に通用し、相手も納得しなければ、その気とその稽古法は間違いか、まだまだ不十分ということになる。

気を出すためにこれまで分かったことは、○手先から肩までの手を刀のように折れ曲がらないようにつかう。そのため、吐く息と引く息で手先を十分に伸ばすと同時に、手首から上を肩方向に伸ばす。○この状態で息を吐いて腹に気を溜め、相手に手を取らせたり、打たせたりする。○この接点を支点として、阿吽の呼吸をする。天と地への上下の二方向の力、そしてこの縦の方向に対する横の力が働くことになる。下の地への方向の力は腰腹(体)の力である、上の天への方向の力は心(多分、気)である。この阿吽の呼吸がピークに達すると、そこに気が満ちることを感じる。所謂、水の中にあるような抵抗のある重い気である。
ここから、阿吽の呼吸の吽で相手を制し、倒すことになるわけだが、これまでの手捌きでやるのではなく、ここに充満した気でやるのである。勿論、手や体の力もつかうが、これは気の裏方であり、主役は気なのである。この気で技をつかうのは、外から見ても分かりづらいが、よく見ると、手は相手の手を掴んでおらず、触れるか触れないかという状態になっているのである。
これが分かり易い写真を右に示す。

また、大先生が相手に触れずに相手を倒したのも(写真)、この気によったものだと考える。

気を出し、気を感じるための研究をしているわけだが、これが分かり易く、感じやすい稽古法がある。それはお風呂でやることである。以前、肩を貫く稽古法で、お風呂での稽古がいいと書いたが、気に関してもお風呂の中で、前述の稽古をやるのがいい。勿論、一人稽古である。特に、最後の吽で気が感じられ、手が重くなると同時に、その重い手が沈み難くなるのである。体重と心(気)で手を制御しなければならなくなるのである。

更なる気の研究をし、相対稽古でのわざの錬磨でその結果を試し、反省し、修正補完しながら進まなければならない。