【第654回】  魂魄の結合

合気道は、「魂の学び。魂魄阿吽の呼吸。」とか、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない。」とか、魂と魄という言葉と意味を大事にしている。
そして、「合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである。」と、合気道の技は、魄でやるのではなく、魄を土台にして、魄の上に魂をおいて、魄を導かなければならないというのである。

しかし、魄の力で技を掛けては駄目で、魂でやれと云われても、実際、どのようにすればいいのか明瞭ではないだろう。
そこで、魄を魂の世界にふりかえるためにどうすればいいのかを研究してみたいと思う。

このための大いなるヒントを大先生はこの文章の中に込められておられると思う。「阿吽の気の呼吸は大乗、小乗を左右に見きわめ、その気をもって自在なる武の真髄を生み出し、最高の美の変化を示す。大乗、小乗の両道に共通する阿吽の呼吸が、左、右、左と巡環に払って禊ぎすれば、四方八方に武産が生き生きとして、武の兆しが出る。阿吽の呼吸の気の禊によって生じた武の兆しは、世の泥沼から蓮の浄い花咲く不思議なる巡り合わせのように、不思議なる魂の花が開き、各自の使命の実を結ばせ、心で身を自由自在に結ぶ。すなわち魂魄の結合の武の本義を現わす。この禊ぎは自我の差別をもってなさねばならない。宇宙の仕組んだ、五行の気運に逆らってはいけない。武は宇宙の仕組みから生じるのである。」(合気神髄P.95)

まず、魄は問題ないだろう。通常の生活や稽古で問題なく使っている身体であり、身体からの力で、使うなと諭されても使ってしまう力である魄力の魄であるからである。
厄介なのが魂である。上の文では、魂とは心としている。初めは魂を余り深く考えないで、心と考えるのがいいだろう。
この魂(心)を自由自在に働かすのは、阿吽の呼吸であるという。そして阿吽の呼吸によって、魂を生き生きとさせると共に、魂魄を結合するのである。魂魄の結合とは、心で身(体)を自由自在に結ぶことであるという。心が上になり、体を自由自在につかうということである。そしてこれは阿吽の呼吸の息づかいでやらなければならないというのである。左、右、左と巡環する阿吽の呼吸でやると、心(魂)が天と地と結び、そして体も心に従って、天と地と結び、心と体が結合すると思えるのである。

しかし、魂が上だからと言って、魄(身、体)が大事でないということではない。魄も魂と同じように大事なのである。大先生はこれを、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない。合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである。世の中を守るところの道は、霊魂を守り、魄の世も守り、魂魄調和のとれたアウンの呼吸をもって、すべての生成化育の道を悉く守り、栄の道を愛育することの競争である。」(「武産合気」)と云われているのである。
魄も魂が座るように鍛え、そして魂魄が結合するようにし、その上で、魂の世界に振り返るようにすればいいだろう。