【第619回】  水の位 その2

前回は、相手と対峙する際は、「水の位」に身を置かなければならないと書いた。「水の位」とは、身を「水」の状態に置くということであり、「水」とは、空気よりも密度があり、・念力があるが、目には見えないモノと考える。

前回研究した開祖の道文をもう一度ここで見ることにする。
「(昔は、兵法を畳の上で道により、)天地の息をもって相手の距離を“水の位”とし、それを彼我の体的霊的の距離のなかにおいて相対す。
相手火をもってきたら、水をもって対す。相手を打ちこませると誘ったときは、水が終始自分の肉身を囲んで水とともに動くのである。すなわち相手が打ってくれば、水とともに開くから打ち込まれない。(略)この心理に合した呼吸で行わなければならない。」(「合気神髄) P.98)

今回は、この道文の後半(太字)の「水」を研究してみたいと思う。
「相手火をもってきたら、水をもって対す」の火は吐く息であり、対する水は引く息と考える。相手の吐く息の火に対して、こちらも吐く息の火で対すればぶつかってしまうから、魄の稽古、力の勝負の稽古となってしまう。火と結び、火を制することができるのは水ということである。

勿論、この水の引く息(吸う息)は只、吸うのではない。只吸うとは、びっくりした時のように、胸で息を吸ってしまうことである。
火に対する水の息づかいは、所謂、天地の息づかい、摩擦連行の息づかいである。下腹に息と力を入れ、息を下腹、そして胸に入れ、同時に、息(気)と力が腹から地に下りていく息づかいである。
また、この息づかいによって、相手を打ち込ませるように誘う事ができるのである。

さて、ここの水は引く息であり吸う息であったが、次の「水が終始自分の肉身を囲んで水とともに動くのである」の水は、前回の「水の位」の水である。見えないが、己の身を囲み、密着した、重みのある、密度がある、相手の「火」や相手の動きを伝搬するモノである。
つまり、「水」には、呼吸の水と「水の位」の水があることになる。そしてこのいずれも呼吸で行わなければならないと、「すなわち相手が打ってくれば、水とともに開くから打ち込まれない。(略)この心理に合した呼吸で行わなければならない。」と云われているのである。
引く息の水も「水の位」になるのも、呼吸ということである。
実際に、稽古で太刀を捌くには、この呼吸で、身を「水の位」に置き、引く息の水で開かなければならない。

更に開祖は「これを修めれば、智仁勇おのずからでてくるのである。真一の大和の魂になり、全身合気となり、また、これ無我の境にはいることができる」と云われているのである。

この状態になるのが相対稽古での真の初めということになると考える。

尚、この事を詠った道歌がこれであろうと思う:
○武産は御親の水火(いき)に合気して その営みは岐美の神業
○火と水の合気にくみし橋の上 大海原にいける山彦