【第583回】  魄の力の上に魂をのせる

合気道は、魂の学びであるといわれる。
しかしこれは中々難しい。このような合気道の稽古をしている稽古人は、私も含めてまだほとんど見受けないが、大先生が我々に示されたのはこの魂の技であったわけである。

合気道は、相対での形稽古を通して技を錬磨している。これによって体をつくり、そして宇宙の法則に則った技を身につけ、宇宙の営みに同化しようとしているわけである。だから、これは合気道修業の基礎であり、重要な稽古であることに間違いはない。

しかし、このような形稽古と技の錬磨は、どうも基礎的な稽古の段階であって、この段階ではまだ合気道が目指している真の合気道にはなっておらず、次の段階を目指して進まなければならないことになるはずである。

開祖は、「今までは形と形の物のすれ合いが武道でありました」(「合気神髄」P.129)と言われているが、今の一般的な合気道の形稽古は、まだこの段階にあると思う。従って、次の段階に進むわけだが、開祖はそれを、「それを土台にしてすべてを忘れ、その上に自分の魂をのせる」(同上)と言われているのである。
つまり、形のある物(魄)を土台にして、それまで魄で技を掛けてきたことは忘れ、その魄の上に魂をのせて、魂で魄を動かせと言われているのである。
これを開祖は、「形より離れたる自在の気なる魂によって魄を動かす」(「合気神髄 P.130」と言われている。

魂によって魄を動かすことが、魂の学びであり、これが合気道ということになるわけだが、容易な事ではない。しかし、これに挑戦しなければ合気道を修業していることにはならないわけだから、やらなければならない。
難しいことはわかっているが、やるべきことを一つ一つやっていけば出来るようになると信じている。

そこでまず、これまでの考え方とやり方を根本的に変える必要がある。
「魂によって魄を動かす」ということは、これまでの「形と形の物のすれ合い」の武道とは異質のものであるわけだから、考え方や心・体のつかい方をこれまでと真逆にしなければならないはずである。それが先述の「それを(それまで学んだ事、鍛え上げたもの等)土台にしてすべてを忘れ」ということである。「忘れろ」ということは、それまでと対称的な稽古をしろということでもあると考える。
つまり、それまでの延長上で稽古を続けても魂の学びの稽古にはならないということになる。

次に、形稽古での技の錬磨は合気道の基本であるわけだから、相手に技を掛けていくわけだが、それまでの受けの相手の倒れ方と全然違った受けが取られるようになるはずである。
それまでは魄(形の物)で投げていたので、受けの相手はその重力と投げる力の慣性などで投げられたり、受けを取っていたわけだが、魂によってやると、受けの相手は自ら浮き上がり無重力状態になり、体の大きさや、重さなど関係なくなってしまうものである。以前の受けの倒れる姿(勢い、早さ)は見た目から想像できるし、計算できるが、魂による受けは、遅速・強弱・大小・止進など自由自在で、受けや第三者には予測不可能になるようである。

また、これと関連して、受けの相手は投げられても抑えられても心地よさそう表情や気持ちになるようだ。魄の力の稽古では、投げる側の取りも、受けもやってやろう、やられまいと固い表情、武道的な表情になっているものだ。

このように形の物(魄)でやるのと魂で魄を動かしてやる技は、異質な結果を生みだすようである。まずは、このような、以前と対称的な結果が出るように、技づかいをしていくことも一つの方法ではないだろうか。

次回は、「魂によって魄を動かす」ための稽古法や技づかいを研究してみたいと考えている。