【第533回】  大先生の教え

私は大先生晩年のご健在な時期の5年間、本部道場で稽古をさせて頂いた。大先生とは、道場でいろいろ教えて頂いたし、また、稽古後の休み時間なども、高齢の先輩たちと一緒に、大先生の昔のお話や、個人的なお話も伺うことができた。
しかし、本当の教えは大先生が叱られた時だったと思える。
何しろ、大先生には、みんなよく叱られた。大先生が叱ると、誰も顔を上げて大先生の顔を見ることなどできす、みんな下を向いていたものだ。

当時もそうだったし、今、考えても、大先生が叱られるのはもっともで、誰も反論できないと思う。だから、只、我々は反省するしかないわけである。つまり、叱られたことこそ大先生の教えであったわけで、今になって、その大先生の教えの有難さがわかるようになったのである。
それでは、お叱りになって、我々に教えられようとした大先生の教えを、思い出してみることにする。

○がっちりした稽古をしないと叱られた。受ける方は、技を掛ける方に力一杯つかんだり、打ったりしなければならない。技を掛ける方も、諸手取でも正面打ち一教でも、しっかり持たせ、しっかり打たせて攻撃させるのである。
諸手取呼吸法でもしっかり持たせなかったり、しっかり持たせないように動かしたりしてやるのが、大先生に見つかると、必ず叱られた。

私自身も一度、正面打ち入身投げで、しっかり打たせず、触れて倒す稽古をしているのを見つかって、叱られたものである。
それは自主稽古の時間で、われわれの他、他に1組が稽古をし、後は、ある師範を囲んで雑談していた程度だから、道場には数人がいるだけだった。正面打ちは尺骨で相手の尺骨を受けるので、尺骨が赤く腫れて痛いので、こうやれば痛くないだろうとやっている所を、(旧道場に離接していた)事務所におられた大先生がご覧になっていて、私と目が合ったとたんに道場に飛び出してこられ叱られたのである。

しかし、お叱りを受けるはすの張本人である私とその相手は叱らず、遠くで雑談をしていた師範と高齢の先輩たちに怒ったのである。正面打ちはしっかり打ち込んで稽古しなければならない、稽古はがっちり、力一杯やらなければならないと叱られたのだ。勿論、遠くにいて雑談をされていた師範も先輩たちは、何故、大先生に突然叱られたのか、何故、何もやっていない自分たちが叱られなければならなかったのか分からずに、後で頭をひねったり、ぼやいておられたのは気の毒であった。

これには、二つの教えがある。一つは、稽古は、まず、がっちりと、力一杯やらなければならないということ、もう一つは、道場で問題があれば、その場の一番上の者(師範、段の上の者、稽古年数の長い者等)に責任があるということである。つまり、監督不行き届きということである。確かに、初心者は何も知らないわけだから、上の者が指導しなければならないことになる。
この大先生のお叱りを受けて、道場に先輩がおらず、自分が最古参の場合は、何かあれば注意をすることにしている。注意をするのも嫌なものであるが、大先生の教えということでやっていこうと思っている。

○女性を投げたり、女性を男性と同じように荒っぽく扱うと叱られた。女性を腰投げで投げたりしたら、開祖は烈火のごとく怒られた。
女性は繊細にできているから大事に扱わなければならないと云われていた。だから、女性と稽古をやるときは気をつかった。いつ大先生に見られても叱られないように稽古をしようとしたものである。
この教えにも、二つの教えがある。一つは、相手を思って、相手に合わせて稽古をしなければならないということ、つまり、愛の稽古をしなければならないということである。二つ目の教えは、男性相手に力一杯稽古すると同じように満足感を得るために、力のかわりに気持ち(気)・心でやらなければならないということである。

○大先生が道場に突然入って来られたことに気がつかなかった時、必ずお叱りを受けた。その時間の指導者が叱られることになる。
この教えは、喩え、稽古に集中していても、周りのことにも気を張って稽古をしなければならないということであろう。
そこで私と若い稽古仲間は、大先生が道場の前に立たれたならば、手を叩いて大先生がいらしたことを知らせ、稽古を中断させたものだ。
これは、技に集中しながら、外にも気をめぐらすという、いい稽古になり、いい教えだったと思う。

○道場で剣を振ったり、杖を振ったのを見つけられると、激しく叱られた。そして、剣はお前たちには、まだ早い。もっと徒手の稽古、体術をしっかりやらなければ駄目だといわれた。
確かに、合気道の剣である合気剣をつかえるようになるためには、先ずは体術ができなければならない。何故ならば、合気の体術に剣を持ち、体の一部として剣をつかうのが合気剣であり、剣を道具としてつかう剣道の剣とは違うからである。大先生は剣道の真似をした剣を嫌っておられたのである。

○大先生は応用技や難しい技をやるのを好まなかった。基本技、とりわけ、坐技をやっていれば、上手かろうが下手であろうが、お叱りはなかった。膝を何度も擦りむいて、早く立ち技にならないかな、何故、今の生活様式にはあまり必要とも思えないような、坐技の稽古をしなければならないのか、等と思いながら稽古をしていた。

しかし、最近になって、その教えの重要さがわかってきた。坐技によって、股関節が柔軟になり、体幹が十字につかえるようになるからである。股関節が固ければ、技は効かないし、腰を痛めることにもなるのである。合気道の技をつかうにあたって、股関節の働きが大事なのである。

更に、坐技によって、己の下半身の威力、地の力が実感できて、活用できるのである。これは立ち技では実感しにくいものである。例えば、半身半立ちの四方投げ、坐技呼吸法などはその典型的なものであろう。

大先生は、『合気神髄』『武産合気』などで、貴重な教えをされているが、それと合わせて、じかに叱られて体験した教えのすばらしさが、最近やっとわかってきたというところである。