【第516回】  争わない合気道で、なぜ投げたり抑えたりの稽古をするのか

合気道は争わない愛の武道、愛気道であるはずである。それなのに、なぜ受けを取ってくれる相手に技をかけて、倒したり抑えたりする稽古をするのだろうか。また、しなければならないのか。一般に考えれば、争わないのなら、例えば社交ダンスのように、受けと取りが一つになって仲よく動ける稽古をすればよいのではないか、と思うはずである。

しかし、実際の合気道の稽古では、相手が倒れるように一生懸命、力いっぱい技をかけあっているのである。

開祖も、力一杯稽古をしなさい、とか、触れたら跳ぶような稽古をするな、といわれていた。力を抜いたり、気を抜いた稽古をしているところを見つけられると、烈火のごとく怒られた。

だが、我々が互いに力を一杯に出しあって稽古しているのをご覧になると、そんなに力を入れなくともよいと、ニコニコしながら道場に入ってこられ、内弟子や高段者相手に二,三の技を軽くかけられて出ていかれたものである。

また、男性が女性を強く投げたり、決めたりしていると、開祖にひどく叱られた。開祖は、女性の体は繊細にできているのだから、大事に扱わなければならない、といわれていた。女性と稽古をやる時には、開祖の目があると思って気をつかったものである。

前から書いているが、開祖は張本人を叱るのではなく、道場にいる一番古い稽古人か責任者、さらにはその稽古時間の道場中が叱られるのである。叱られる激しさや時間はその度に違ったが、だいたいは正座している足がしびれてきて、お話が早く終わるようにと祈りながら聞いていたものだ。

このような経験をしたので、合気道をどのように稽古していけばよいのか、一時的に考えたものだったが、結局はわからなかった。開祖にお叱りを受けた後、先輩やまわりの稽古人たちの稽古を見ても、以前と変わった様子もなく、やはり力一杯稽古をやっていた。力一杯稽古をしていれば、開祖のお叱りもほとんどなかったので、力一杯の稽古を続けていたのだろうと考える。

あれから半世紀たったわけだが、争わない合気道でなぜ力一杯技をかけなければならないのかが、少しずつわかってきたようである。

まず、開祖がいわれていた、合気道の稽古の目標である。それは、宇宙との一体化であり、神に近づくことである。そのためには、宇宙の法則を身につけていかなければならない。合気道は形稽古を通して、この宇宙の法則である技を見つけ、会得していくのである。

この技を身につけることを、技を練るという。技を練るためには、力(呼吸力)、呼吸、拍子、心(気持ち)等を十分に働かせなければならない。そして、それらを限界・極限まで働かせながら、常にその底上げをしていかなければならない。これが精進であり、上達ということになる。力を抜いたり、気を抜いたり、なかよしこよしの稽古では精進できないのである。

ただし、受けの相手を投げたり押さえたりするのは目的ではない。精進するための過程であり、研究であり、切磋琢磨なのである。真理をつかみ、神に近づくためには、これは必要なのであり、MUSTである。それ故、時として激しく厳しく相手を倒したり押さえたりすることにもなるわけである。