【第510回】  開祖の教えを学ぶ法

誰もが知っている通り、合気道は植芝盛平翁がつくられた武道である。宇宙規模の思想と哲学をつくり上げ、そして、宇宙規模のそれを形に表わされ、われわれ後進たちに残して下さったのである。合気道の稽古人たちは、少しでも開祖に近づきたいものと、日頃稽古に励んでいるわけだが、これが容易ではないのである。

われわれ開祖と少しでも接触があって、開祖のお姿や技を拝見したり、お話を伺う機会があった者たちは、開祖を知らない人たちよりも多少、開祖の教えがわかる可能性はあるだろう。だが、開祖を全然知らない稽古人達には、開祖のお考えがわかりにくいのではないかと思う。

開祖が昇天されてしまった今では、合気道に対する開祖のお考えを直接お聞きすることはもはやできない。せいぜい、録音テープやフィルム映像、それに開祖が書かれたり、監修されたり、また、開祖のお話をまとめた『合気神髄』『武産合気』等で知るしかない。(私はこの二冊は合気道の聖典であると考える)

この二冊の聖典には、開祖の合気道観が詰まっている。合気道とは何か、目標は何か、どのように修業しなければならないか、などが最も詳しく書かれており、合気道を稽古する者の必読書であると考える。つまり、この聖典を読みこなし、身につけ、そして、それを技で表わさなければならないのである。そうしないと、合気の道に乗ることも進むこともできない、と思うからである。

しかし、この聖典を読んで理解するのは超難解なことであろうと思う。おそらく、どんなに頭がよいといわれる人でも、一度や二度読んだくらいではわからないであろう。

合気道においてわかるということは、頭で理解するということではなく、それを技で示すことができなければならない、と考える。学者や宗教家などならそれなりに言葉を解釈するだろうが、おそらく合気道、つまり、開祖がいわれている解釈ではないはずである。

それでは、この難解と思われる開祖の教えを、どのように学ぶことができるか、ということになる。先ずは、聖典『合気神髄』『武産合気』を読むことである。一度や二度ではチンプンカンプンのはずだから、5度、10度と繰り返して読み続けるのである。

つまり、形稽古と同じで、読むごとに何かわかってくるはずだから、繰り返せば繰り返すほど段々わかってくるのである。「読書百篇意自ずから通ず」である。この言葉は誰もが知っているだろうが、おそらく実行したことはないだろう。この聖典で実行すれば、学んだ知識が生きるわけである。

聖典を何度も読んでいくうちに気づくことだろうが、今の世では信じられないようなことが多く書かれている。神様など目に見えないものや、見えない幽界や神界、魂や霊や気など見えないモノ、等々である。これを、目に見えないものだから信じない、と思うなら、聖典を読む意欲もなくなるだろう。すると、合気の道も閉ざされることになる。

何はおいても、まず、開祖がいわれていること、そして、開祖を信じなければならない。見えないモノが見えないのは、自分の実力不足かもしれない。合気道が上達し、人間的に成長すれば、今、見えないモノも見えるようになるかも知れない、と思うことである。

開祖は神様と共にあったということだから、われわれ凡人のように嘘をつかれたり、虚言(大げさに言う)、偉ぶっていう、などは決してされない。開祖のいわれたこと、書かれたことは、疑わずに信じることである。

開祖がいわれていることが事実とすれば、その事実は存在することになり、あとは己がそれに近づく努力をすればよいわけである。

聖典を読んでいくと、ピンとくるところに出会うはずである。そこは自分の今のレベルと一致した箇所であり、自分が今求めている技に関する箇所のはずである。そこで、出会った箇所の事を技で試してみればよい。ただし、必ずできるという保証はない。できるできないは本人次第で、才能と努力、そして運ということになろう。

また、聖典を何度も読んでいけばわかるだろうが、読んでわからなかったことが他の箇所で説明されていることも多い。何度も読んで行けば、わからなかったこともわかってくることになるのである。

しかし、頭でわかっただけでは不十分である。それを技で表わさなければならないのであるから、いろいろなタイプの人に試してみることである。簡単にはできないはずであり、考えては試し、反省してまた試す、と試行錯誤を繰り返すことになるだろう。

このような稽古を繰り返していくと、開祖の教えや合気道とは何か、稽古の目的は、などもわかってきて、どのような稽古をしなければならないかもわかってくるようである。これが合気の道に乗ったということだと考える。あとは、その道を進めばよいだろう。

道に乗るためには、開祖の教えを学ばなければならない。