【第498回】  くわしほこ

開祖の最晩年の5年間、本部道場に通っていた。日曜日も含め、一週間毎日、道場に通い、2時間から3時間は稽古していたし、稽古の間の自由時間にも仲間や先輩たちと自主稽古していた。道場に長時間いたおかげで、開祖に接する機会も多くなり、開祖のすばらしい技を拝見できたし、貴重なお話も伺えたのであった。

開祖のお話は非常に難解で、我々には理解できず、いつもお話が終わって早く稽古になることを念じていたものだが、不思議なことに50年前の開祖のお話の一部が今でも頭に残っているのである。「宇宙の気、淤能碁呂島の気、森羅万象の阿吽の気を貫く」もそのひとつで、今でも耳に残っている。

当時はこれがどのような意味なのか、なぜ大事なのかなどはわからなかったし、わかろうともしなかった。自分なりにその重要性に気がつきはじめたのは、最近のことである。開祖が何度もこの言葉を繰り返された理由も、ようやくわかってきたのだが、これは合気道を修業していく上で不可欠であるといってもよいほど重要なことであった。

開祖がこの「宇宙の気、淤能碁呂島の気、森羅万象の阿吽の気を貫く」といわれた時は、足を天盤、地盤に立たれ、地の底の国に降りられ、そして木刀や笏で天を突かれていた。実は、これが合気道では重要な事であることだったのである。

開祖は演武や神楽舞で身体をひねったり、折り曲げたりすることがなく、常に身体は地に対して直角でまっすぐであったと記憶する。映画やビデオで確認しても、開祖の身体は常にまっすぐである。

しかし、我々が技の稽古では、身体をひねらず、まっすぐにつかうのは容易ではない。どうしても身体をひねったり、折り曲げたりしがちである。

そこで、開祖のように身体をまっすぐつかうには、どうすればよいかを研究してみたいと思う。その答えは、次の開祖の道歌にあると考える。
「くわしほこ ちたるの国の生魂や うけひに結ぶ 神のさむはら」
僭越ながら言葉の解釈をすると、「くわし=細し、美し=うるわしく、素晴らしい」(大辞林)、「ほこ=矛・鉾=両刃の剣に長い柄をつけた武器」(大辞林)、「地たるの国=地底の国」、「うけひ=宇宙の受霊=われわれの霊を受け止めてくれる魂」(合気神髄)、「神のさむはら=さむはらという神様=天の村雲」(合気神髄)となる。尚、「ちたるの国の生魂や」の「や」は大事で、「と」という意味であり、感嘆詞ではない。「生魂」と「うけひ」の双方を結ぶということである。

この道歌を解釈すると、「うるわしく、すばらしい鉾は、地底の国にある生命豊かな魂と、天にあるわれわれの霊を受け止めてくれる受霊とを結ぶ、天の村雲の剣である」ということになる。

開祖の神楽舞の前の祈りの儀式は、己を地の底と天に結び、「くわしほこ」になることだったと考える。そして、これが「宇宙の気、淤能碁呂島の気、森羅万象の阿吽の気を貫き」ということではないかと考える。

ここで開祖がいわれているのは、「くわしほこ」になるためには、「物理と精神を並行し、気体と気体とを正しく打ち揃った体にする御柱とならなければならない」、そして「合気によって、以上のことを感得し、実際に行っていろいろと整えてゆくことである」ということである。

つまり、天盤・地盤に立つ時には、体力(物理)と気持ち(精神)のバランスが崩れないよう、そして地底の気(気体)と天の気(気体)が正しく結ぶ「布斗麻邇(ふとまに)」であり、「八尋殿」「至誠殿」となる体が御柱となるよう、稽古しながら体を整えていかなければならない、ということであろう。

体が「くわしほこ」になっていけば、天とも地とも結び、天と地からの気が体に入るだけでなく、天と地が力を体に与えてくれることになるはずである。

稽古によってそれを感得し、身につけていきたいものである。