【第472回】  合気道に形(かたち)がないなら

前回の第471回では「合気道は形がない」と書いたが、それでは稽古で形を追わずに何をどうすればよいのか、を研究してみたいと思う。

合気道は技の錬磨で精進していくわけだが、合気道の基本の形(例えば、片手取り四方投げ)で、宇宙の営みを形にした技を身につけていくわけである。そして、その技がよいか悪いかは、一般的には、技をかけた相手がどのように倒れるかによる、といってよいだろう。

しかし、その技の良し悪しの判断は、いってみれば、自分の体づかい、動き、態勢などの形(かたち)によるはずである。効いた技の形は無駄がなく、必要なものがあって、美しくもあるはずである。逆に、無駄があったり美しくない形は、効かない技であろう。従って、形を美しくする、無駄がなく、宇宙の法則(例えば、陰陽、十字、円などの動きのめぐり合わせ)に則るようにすれば、技が効くはずであるから、形を追うことになるのである。

これは、合気道には形がない、形を追うものではない、ということと矛盾するようだが、これこそが合気道である、と思う。つまり、相容れないものが表裏一体となっている、ということが、自然の理であり、宇宙の営みのはずであり、本物である、と思うからである。実際、技を上達していくためには、形を追ってやるしかないはずである。

形の大事なことを教えて下さったのは、晩年の故有川定輝師範である。師範は、本部の稽古では直接口に出して説明されることはなかったが、技で示されていたし、晩年の「東京都指導者講習会」などでは、形の重要さや、手や足や体の角度などを、どのような形にならなければならないか、また、なぜそのようにならなければならないか、詳しく説明して下さった。これは大変勉強になり、形を大事にして稽古しなければならない、と思ったものである。

初めは、大まかな形を身につけることからはじめて、だんだんと細部の形を直していくのである。

例えば、極意技であると思う正面打ち一教であるが、手足を陰陽でつかえるようになると、まず、相手が打ち下ろしてくる手を、こちらの手刀でくっつける。この時、己の手は己の正中線上になければならない。また、相手の正中線、つまり体の中心を手刀でおさえていなければならないし、相手の手と接した時の己の手の平の角度は35度から45度開いていなければならない。

次の形として、反対の手の掌底で相手の肘をおさえる。そこを支点に、反対の手の平を腰腹で外側に返しながら、手の平を寝かせ、相手の手首を小指と親指でつかむ。次に、相手の肘にかかっている手を、足を進めて下に落とし、反対の小指と親指でつかんでいる相手の手を、槍で突くように進み、進めた足の膝で相手の横腹を突くようにして地に着き、反対の手と足に重心を落としながら立ち上がる。

こうすると、足は右左交互に撞木(有川先生はこれを六方と云われていた)で進み、手も左右交互に規則的に、しかも足と左右一緒に動くことになる。これが少しでもその形が狂えば、技は効かないし、美しくもないのである。

うまくできるようになると、一人でもこの正面打ち一教の形はできるはずだから、毎日この一人稽古をやればよい。毎日やれば、必ず体、そして真のこころ、魂が、これはよい、こうした方がよいと、形の修正や、そして、よりよい形になるように、導いてくれるはずである。

しかし、形に留まっていてはならない。つまり、出来上がらないことである。身につけた形は、時によっては脱ぎ捨てたり、また、その上に新たな形を重ねていき、成長していかなければならない。

基本的な形から、繊細な形、超微細な形へと、身に着けていく形は無限にある。そして、超微細な形から、見えない形、つまり魂の形ということになるだろう。だから、ますます道は遠くなるのである。

これが、開祖がいわれた「合気道は形がない。形はなく、すべて魂の学びである」の意味ではないだろうか。つまり、形をしっかりと身につけ、そして、その形を忘れ、魂で形になるようにしなければならない、という意味であると考える。