【第461回】  心(こころ)続き

若い内は腕力や勢いに頼った稽古をするものである。開祖のいわれる、いわゆる魄の稽古である。そのおかげで体ができ、合気道の土台ができる。しかし、このような稽古をしていると、どうしても相手の事を考えず、何とか相手を投げたり抑えたりしようとしてしまうので、時として相手を痛めたり、不愉快な思いをさせる事になる。

最近ではようやく、稽古で相手を痛めたり怪我させたりすることはほとんどなくなり、怪我させない稽古ができると思うようになった。

そうなったのは、「心」である。以前と違って、心で技をかけるようになったのである。もちろん、久米の仙人や役行者ではないのだから、心で念じるだけで技がかかるわけはない。

これまで鍛錬した体や力を土台にし、息に心を入れて己の体を動かし、相手の心を導いて、技をかけていくのである。前にも書いたように、それまで培った体力を土台に、魂を上に、魄を下にするのである。

心で技をつかうので、自分の体は自由に使うことができるし、相手も自由に投げたり抑えたり、そして、動きを停止することもできるのである。もちろん相手によるのであって、実力の差が有り過ぎればできないこともある。

心でやれば、相手がこちらの思うようについてきてくれるものである。力である魄に頼ってしまうと、相手は必ず「何を、小癪な」と反発してくる。相手が倒れるのは、自分の心に従って倒れるはずだから、その心を納得させなければならないのである。心が納得すれば、相手は自ら喜んで倒れ、そしてそれが合気道の技となるわけである。

心で技をかけるようになると、大きい力、腕力などの魄の力とは異質の力が出てくる。そして、この力が、呼吸力となってくるようである。腰腹からの次の力、呼吸力である。

だから、心は大事である、と実感しているわけである。開祖はこの「心」を直すことが合気であるとし、心は大事だといわれている。

心は誰でも持っているし、使っているわけだから、ことさらに心をどうこういうこともないと思われるかもしれない。だが、開祖がいわれる「心」とは、俗なものではなく、「皆空」の心なのである。開祖は「合気道は、皆空の心と体を造り出す精妙なる道である」といわれている。

「円は皆空で、皆空の中から生み出すのが心」である、といわれる。皆空の心とは、無の心、無心であろう。相手に勝とうとか、負けまいとするのではなく、何にもとらわれない心である。すなわち、ただ合気の道を、目標に向かって進むことに集中することであろう。

しかし、己の心を無心の皆空の心にするのは、容易ではない。禅にしても武道にしても、茶道などの稽古事にしても、無心の悟りを得ようと多くの人が修業したものだし、現在も修業しているのである。

合気道も皆空の心をつくることが稽古である、といわれているのだから、そのような心をつくっていかなければならない。心の立て直しであり、解脱である、ともいわれており、それまでとは異質の心にしていかなければならないのである。

心が皆空になっていけば、技は変わっていくはずであり、次に控える「魂」や「気」もわかってくるのではないか、と期待している。