【第44回】 幽 界

合気道では、大宇宙には顕界、幽界、神界の三界があるという。顕界は現実の世界であり、神界は神の世界で、その間にあるのが幽界である。顕界とは目に見える世界、つまり物質の世界、日常の世界であるので、誰にでも分かるだろう。神界とは神の世界なので、普通の者はおいそれと行くこともできず、想像するほかはない。合気道的、宗教的にいえば、八百万の神々がいる高天原である。神界の高天原から顕界に降りる途中で、神界と顕界の間にあるのが幽界だろう。古事記で言う「天の浮橋」かもしれない。

人は現実の世界である「顕界」で夢中になって生きていると、時として、力とか名誉とかお金などの物質文明では満足できない気持ちが生まれるものだ。人は神になって神界に遊ぶことはできないので、時として顕界と接している幽界に遊ぼうとするのではないか。顕界にあって幽界に遊ぼうとする典型的なものに、「能」や「茶道」がある。「能」の足運びや身のこなし、笛太鼓の間合い、「茶道」のお点前などは、現実の世界を超越した幽界の中での動き、所作を表現したものであろう。顕界でのように力みもなく、天と地の間の天の浮橋で動いているかのように見受けられる。

合気道も顕界だけのものではなく、幽界で遊ぶものなのではないか。開祖は、「合気道はまず天の浮橋に立たなければならない」と、稽古のとき常々言われていたが、物質主義の顕界でやるのではなく、幽界に入り、幽界での稽古をせよということであったと思われるのだ。

また、開祖は世の建て直しをするために第二の岩戸開きをしなければならないとも言っておられたが、これも顕界から幽界への扉を開けということだろう。幽界は禊(ミソギ)の場であり、顕界での罪・汚れを祓い、物欲への執着を捨て、想念を転換し、悟るべき修行の場である。合気道の稽古は、まず、顕界の物質文明の現実世界で自分の身体を十分鍛えたら、次に「天の浮橋」の幽界でミソギをしながら悟りの修行に励まなければならないだろう。