【第433回】 対照の世界 合気道
合気道は始めやすいものであるが、終わりが難しいものである。始めはあるが、終わりがないのである。これまで多くの人が合気道に入門したが、これで合気道を完全に会得したという人は、誰ひとりいない。開祖でさえ、亡くなる直前まで修業をされ、常にまだまだ修行じゃ、これからが本当の修業だ、といわれていたのである。
合気道には、このように矛盾やパラドックスがあり、さらに対照もある。いうなれば、正反対のことをやっていかなければならないのである。合気道を悟り、会得していくのは、容易ではないと考える。
しかし、矛盾・パラドックス、そして対照があるから、合気道は面白く、魅力があるともいえる。若い頃は、絶対というものを探していた。絶対というものがあるならば、それを基準にして生きていけばよいからである。もちろん、そのような絶対をみつけることはできなかった。合気道をやっているうちに、それが少しずつわかってきた。そして、同時に、絶対でないものは、すべて相対的であることもわかってきた。そして、相反するもの、陰陽、裏表が一つになっているのが、自然であることもわかってきた。
合気道の矛盾・パラドックスについては、以前にも何度か書いた。例えば、技は力に頼るものではないが、力は養成しなければならない、相手を倒すのではなく、相手が倒れなければならない、等である。
このパラドックスは正しいし、その両方を満たさなければならない。力に頼るだけでは駄目だし、力がないのも駄目である。相手を倒そうとするのも駄目だし、相手が倒れないのも駄目なのである。
このパラドックスは何度も書いたので、これぐらいにして、次の、合気道は対照である、つまり対照を追及しなければならない、ということについて考えてみたいと思う。
思いつくまま順不同で、合気道での対照をあげると、
- 宇宙と自分の体:合気道は、宇宙との一体化を目標とするという通り、対象は宇宙であり、修業の対象は自己から、稽古相手、山川草木、天地、宇宙へと、マクロ化していく。一方、自己の体全体から手足、骨格や筋肉、手首とか肩とかの部位、血管、細胞などなどへと、ミクロ化もする。
このマクロとミクロのバランスが大事であり、また、この対照の幅があれ ばあるほど、その分野の会得が大きいことになる。
従って、宇宙のわかる程度に自分の体が分かるものであるし、自分の体が 分かる程度に宇宙も分かる、ということになろう。
- マクロとミクロ:上記に関連して、最大のマクロである宇宙の愛が分かってくると、ミクロの人間、鳥獣魚虫に対する愛もわかってくる。つまり、万有万物は一家族であり、各自使命をもって、生成化育のために努めていることが分かってくる。
- 統合と分解:体は頭のてっぺんから足の先まで、各部位が各々働くように鍛えなければならない。しかし、技を遣う際は、それを統合して、ばらばらにならないように遣わなければならない。技が効かないのは、その逆をやっているからでもある。
- 今現在と過去・未来:今現在を一所懸命に生きなければならないし、稽古もそうでなければならないが、今現在が未来につながり、過去ともつながっていなければならない。未来にも過去にもつながらないものは、あまり意味がないはずだ。そもそも、「今」という時はない。「今」といったとたんに既に過去になっているし、また未来に突入しているわけなので、われわれは過去現在未来に生きていることになる。まさしく対照がひとつになっているわけである。
- 理論と実践:合気道では、理論と実践が一つの対照となる。どちらか片方だけでは駄目である。やったことは説明でき、言ったことは技で示せなくてはならない。
- 現世と別世界:合気道では顕界と幽界・神界というが、日常の顕界で稽古をするのではなく、別世界である幽界・神界で稽古しなければならない。日常の事を道場に持ちこんで稽古したのでは、別世界の稽古ができず、物資文明である魄の稽古を抜け出せない。
- 遅速:技の錬磨で技をかける際には、自分の標準の速度よりどんどん遅い動きで技をかけていくと、不思議なことにどんどん速く動けるようになる。この遅速も対照で、バランスが取れていることがわかりやすい。
- 分かってくると、分からないことが分かってくる:合気道を始めた頃から、少し前までは、合気道やその他のことも分かっているつもりでいた。だが、合気道を続けて、合気道のことが多少解ってくると、合気道の事も世の中のこともほとんど分かってなかったことが分かってくる。分かってないことが分かって、そこから少しでも分かるようになるのである。
合気道は、パラドックスが存在すること、対照があって、正反対の両サイドを身につけていかなければならないこと、を教えてくれるのである。このような教えは、他にはないだろう。
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