【第429回】 生成化育の大道を明らかにする

合気道の定義は数多くあるが、その一つに「生成化育の大道を明らかにするのが合気道の道であります」というのがある。開祖の聖典である『合気神髄』『武産合気』には、頻繁にこの生成化育という言葉が出てくるようである。

合気道を始めるまでは、生成化育という言葉など知らなかったし、そのように世の中が動いていることも知らなかった。ただ、人はみんな、時代や地域や人種に関係なく、何か一つの方向に向かって進んでいるとは思っていた。

例えば、人は誰でも、どこでも、そしていつの時代でも、よい事はよいとし、よい事をやろうとしているし、少しでも良くしようとしている。悪い事はどこでもいつでも悪い事であり、悪い事はできるだけやらないようにする。これにはもちろん例外もあるが、それはその時だけに通用することで、状況が変われば、その良し悪しもはっきりする。例えば、人を殺すことは戦争では評価されるわけだが、戦争が終わって平和になれば、やはり悪ということになろう。

合気道では、この生成化育の大道がわからなければ、技を身につけることはできないし、精進もできないだろう。なぜならば、合気道は宇宙の営みを形にした技を練磨するわけだが、宇宙の営みというのは、宇宙楽園建設への生成化育だからである。

合気道の教えでは、「世の根元たる一元は精神の本と物体の本の二元を生み出し、複雑微妙なる理をつくり、全宇宙を営み、天地万有に生命と体を与え、万有愛護達成に生成化育の大道を営み、天地万有は一家のごとく一身のごとく、また過去、現在、未来は我らの生命呼吸として、人生の化育を教え、世の進化怠りなきは我らをして、楽天に、統一、また清潔に進展する」とある。

一元の大神様は精神と物質の二元を生み出し、それが万有万物をつくった。そしてその万有万物に、楽天のために生成化育の使命を与えた、というのである。森羅万象すべて、虫けらに至るまで、生成化育の使命を得さしめている、といわれているが、自分に果たして生成化育の使命があるのか、生成化育を果たしているかどうか等は、これまで充分に考えもしなかった。

毎日少しずつではあるが、木刀や杖を振ったり、四股を踏んだりして、体を動かすようにしている。だが、自分が常にこれまでより少しでも上手になろうとしていることにふと気がついて、不思議に思った。誰が見ているわけでもないし、直接、合気道の形稽古に役立つわけでもないのに、少しでもよくなるようにとやっているのである。よい発見があったり、うまくいった時にはうれしいし、壁にぶち当たって上達が止まってしまったときには、不満足をおぼえる。

この少しずつ前進しようとすることが生成化育ではないか、と実感するようになったのである。人は誰でも、前進、進歩、発展しようとしているはずである。それは本能ということもできるだろうが、この本能が一元の神様の意志である生成化育ということであろう。一生懸命にやることが、その人の使命を果たす事であり、それが生成化育ということになるのだろう。

職人でも芸人でも科学者でも、もうこれでよいとやめてしまう事をせず、常に前へ進もうとしている。これは現在だけでなく、過去もそうだったし、おそらく未来にも続くことであろう。

よく見てみると、過去現在未来と、人類だけでなく、万有万物、森羅万象がみな、一元の神様の意志に従って、生成化育をしているのである。

合気道は、万有万物、森羅万象の生成化育を守る愛の働きでなければならない。まずは、自らの生成化育の使命を果たしながら、他の生成化育を守るように努め、そして、生成化育の大道を明らかにしていかなければならない、と考える。