【第416回】 魂と気

これまでも、よく分からないながらも、「魂」と「魄」について書いてきた。分からないのに書くのはなぜかというと、分かってから書くのではいつになるか分からないし、もしかするといつまでたっても書けないかも知れないからである。

また、これまで書いたことや、書くことによって、分かるようになるのではないかとも思うからである。書くとなれば、多少は深く真剣に考えたり、調べたりするものである。

今回は、まだまだ十分に分かったわけではないが、「魂と気」に挑戦してみたいと思う。

魂とは、開祖の教えでは「宇宙組織のタマのひびき」「一切を生み出すもの」「不滅の生みの親」等とある。

従って、「魂」とは宇宙全体に余すところなく発せられている響きであり、いわゆる言霊(ことだま)であろう。この「魂」、一霊(魂と同じ)が、四魂を生み、三元八力とともに宇宙楽園建設に向かって、万有万物に分身分業で生成化育を営むべく、生成化育を営むようにするのである。

この言霊である魂をわかることが、恐らく宇宙との一体化ということであり、その道を「山彦の道」というのであろう。

従って、魂が分かることは最後のゴールとなるわけだから、そう簡単にはわかるものではない。しかし、なんとかその片鱗だけでも分かりたいものだと思う。

開祖は「この世において、目に見えざる火水が体内に通って、肉に食い入り血肉の血行となっている。これを魂という」といわれている。

魂とは生きとし生けるものすべてに分け隔てなく、好き嫌いに関わらず、体内に通っている目には見えない生命エネルギー(水火)であり、それが血肉に入って血行となっている、というのである。確かにこの魂がなければ、人も動植物すべても生きてはいけない。

この魂があるから、肉体が動く。「魂によって魄を動かす」のである。魂がなければ体(魄)は動かないから、死体は動かないわけで、魂があることは確かである。

だが、この魂は万有万物にたいして強弱、良し悪しなどの差はなく、すべて平等に発せられているわけだから、このままでは技を練磨していく武道には使えないことになる。すると、この魂を土台にして、何か有効なもの、不可欠なものを、身につけていかなければならないことになる。

それは、思うに「気」であろう。「気」という言葉は安易に使われているようだが、「気」には非常に奥深い意味があり、そう簡単には会得できないものである。

かつては本部道場でも、「気を出せ」「気でやれ」「気を流せば腕が折れない」等など、「気」という言葉を頻繁に使われていた。そのため、二代目道主は安易に「気」という言葉を使うことを戒められておられたものである。

しかし、修行しているのは合気道であり、ここには「気」という言葉がつかわれているのだから、「気」はやはり重要であるだろう。だから、「気」には挑戦していかなければならないものと思う。

開祖の教えに従っていれば、間違った方向に行くことはないはずである。「気」に関して、開祖は次のように言葉を残されている。そこからいくつかを抜粋して、注釈を加えながら紹介する。

なお順不同(つまり、めちゃくちゃ)で、順番に意味はない:

等などである。

以上のようなことからも分かるだろうが、開祖は、「気」には「天地の気」と「自己の気」があり、この宇宙の気である「天地の気」と気結びして、「自己の気」と宇宙と一体とならなければならない、といわれている。

つまり、「円に十を書く。その上に左右の足で立ち、左足だけで巡るのである。そして天の気,地の気、要するに天地の気と気結びすることである。合気では、自己の気と、この宇宙と一体となる」のであると考える。

理論立てはできた。あとは、気形の稽古によって、技の練磨で気を見つけ、気をつかい、体と心を鍛え、魂を磨き、そして、自己の気と天地の気を結び、仕事をしていくことである。