【第375回】 魂(こん)と魄(はく)

合気道では、魂と魄という言葉がよく使われる。しかし、合気道には力が要らない、と信じている人も多い。また、魂は大事であるが魄は必要ない、などと思っている稽古人もいるようだ。

開祖は、魄が不必要だ、などと言われてはいない。それどころか、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない」と言われている。しっかりした魄の肉体をつくらなければ駄目だ、と言われているのである。

ただ、「合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである」「魄が下になり、魂が上、表になる」ということなのである。

魄とは肉体とか、力(魄力)などである。これはわかりやすいが、魂とは何かがよくわからないことが多い。開祖は「この世において、目に見えざる火水が体内に通って、肉に食い入り血肉の血行となっている。これを魂という」と言われている。しかし、我々凡人にはなかなかわからないものである。

そこで、魂について調べてみると、『魂と霊』(ジェシー・ペン-ルイス著)に、次のような定義を見つけた。

また、かの有名なトーマス・マンは「人間の魂の深部は、同時に太古でもあり、神話の故郷であり、生の根源的規範と生の原形が基礎をおいているところの、さまざまな時代の、あの泉の深部である。」と言っている。

上記の定義から、魂とは
  1. 見えるものに対して、見えないモノであり、
  2. 魄である体を動かす要素、例えば、知性、思い、意志、感情、心等など
ということになるだろう。

しかし、合気道では少し違うと考える。上記では、魂を自分の範囲内で考えているが、合気道の場合は、宇宙との結びで考えるからである。「合気道は、魂の学びである」「合気は宇宙組織を我が体内に造りあげていくのです。宇宙組織をことごとく自己の身の内に吸収し、結ぶ」(「合気真髄」)ということである。

合気道における体を動かす要素の魂とは、例えば、知性、思い、意志、感情、気持ち、心等をまとめた「愛」ということになるだろう。

この「愛」も、自分の愛だけでなく、宇宙の分身分業による生成化育のための万有万物に隔たりのない愛、ということになるだろう。

開祖が言われている「魂の世界にふりかえるのである」「魄が下になり、魂が上、表になる」ということは、その宇宙の魂、つまり愛の心や気持ちを魄にふりかえ、愛の魂が表になるようにする、ということであると考える。

参考資料:『魂と霊』(Soul and Spirit - A Glimpse into Bible Psychology)ジェシー・ペン-ルイス著