【第37回】 見えないものを見る

合気道を習い始めた頃、まだお元気だった開祖の技を見ても、実をいえば何がなんだかさっぱり分からなかった。稽古時間が終わった後での自主稽古では、先輩が開祖のされた体術や武器術を真似しようとしていたが、とうてい出来るものではなかった。それに、そんなところを開祖に見つかったら、大目玉だった。

人は見ているものが素晴らしいと思えば、自分もそれをやりたいと思うし、すぐ出来るのではないかと思い勝ちであるが、開祖が示されたのは常に最高のもの、極意であり、長年にわたって厳しい修行を積み重ねてこられた結果なので、表面的に真似しようとしても出来るわけがない。だから、稽古人には、基礎からしっかりした稽古を重ねなければならないと常々言われていた。

見るということは、現在のほんの一瞬の一コマを見ているだけであって、決して過去も、未来も見る事はできない。しかし、その現在の一瞬には、過去の一瞬々々が繋がっている。開祖の場合は、これが神代、宇宙生成の時期まで繋がっているわけであるから、見た瞬間がわかるためには、その時期まで戻っていかなければ、見た瞬間のものは本当には分からないということである。

最近の稽古人や外国人は、どちらかというと物事を即物的に判断するので、「師」に対する考え方も以前とは大分違ってきているように思う。彼らにとっては、「師」とは自分より技術が優れている人のことであり、その技術を教えてくれる人と考えているらしい。従って、沢山のいろいろな技や奇抜な技を教えてくれる師が、すなわちいい師ということになる。しかし、「師」とは本来、技術という一面的な存在ではなく、神の秘密の一端を伝える存在であろう。その見えないものが大切なのだ。従って、一瞬の見えるものだけを追っているようでは十分ではない。それに繋がっている見えないもの、神の秘密の一端を見るように、修行していかなければならないのである。