開祖が居られた頃には、道場の稽古の時間に突然入ってこられて、お話をされたりすることがあった。しかし、お話が我々若い稽古人にはほとんど理解できなかったこともあって、恐れ多くもお話が少しでも早く終わることを祈ったりした。
今になると、無礼なことをしたと反省するとともに、大変もったいないことをしたものだと後悔する。開祖がなんとか合気道の真髄や極意を、我々稽古人に伝えようとされていたことが、今になるとわかるし、開祖の無念な気持ちがお察しできるように思う。
だが、開祖のお話にそれほど耳を傾けていたわけではないのに、それでも開祖が話された言葉が身体のどこかにしまい込まれ、しみ付いているようである。「合気真髄」や「武産合気」を読むと、時々開祖の言葉と重なってくる。
そのためか、「合気真髄」や「武産合気」を読んでいると、開祖の声が聞こえてきて、開祖が話されているように思えるので、少しずつではあるがほとんど毎日、読み続けている。
とはいっても、「合気真髄」や「武産合気」を毎日読んでいても、両書は難解である。しかし、繰り返して読んでいるうちに、ほんの少しずつではあるが、その都度分らなかったことが何かわかるようになってくる。最近では、もしかすると、100回繰り返して読めば、相当解るようになるかも知れないと、希望を抱くようになってきた。
先月に「武産合気」をまた一通り読み終わったので、今は「合気真髄」を読んでいるが、「円の本義」の章で頭を痛めている。この章は何度も何度も読んでいるが、相変わらずよくわからない。通常はわかろうがわかるまいが読み流すのだが、今回は例外的にここを読み返している。とりわけ、「魂の円」に引っかかるのである。
開祖はここで、次のように書かれている。「これは(魂の円)は合気の武の根元でありますが、魂の円を体得した極意には、相対の因縁動作を円に抱擁し、掌(てのひら)に握るごとく、すべてを吸収します。己に魂があれば、人にも魂があり、これを気結び、生産びして円の本義の合気を生み出させれば、円はすべてを統合します」(「合気真髄」)
ここで解るのは、「魂の円」は合気の武の根元であること、「魂の円」を体得すれば、相対の相手も円に吸収し、自由にしてしまう技を生み出すことができるようになる、ということであろう。なんとなく解るような気もするが、それでも「魂の円」がどういうものなのか、よく解らない。
文字を追って意味を解ろうとしても、限界がある。この限界を突破すべく、文字や頭ではなく、身体、つまり技の練磨から解明しようと思う。合気道は理屈ではない。技で証明しなければ意味がないから、その方がよいだろう。
もし「魂の円」を体得したならば、「相対の因縁動作を円に抱擁し、掌(てのひら)に握るごとく、すべてを吸収します」とあるから、こうなるかどうかやってみればよいだろう。相対稽古で相手を自分の円に入れ込んで、相手が自分の一部になってしてしまい、相手を自由自在にできればよい、ということであろう。
これを技でやるわけだが、ここでは「坐技呼吸法」で考えてみることにする。