【第362回】 言葉は魄

合気道の稽古は、静かである。エイ、ヤア、トオ、などのかけ声をかけることもなく、話もしないで、黙々と技をかけあい、受けを取る。けっこう激しい動きの稽古で、息が苦しくなったり、疲れても、ただ黙々と稽古する。これは、開祖の頃からの稽古法と変わらないものである。

しかし、中にはぺちゃくちゃしゃべっている者も、時にはみかけるようだ。やはりしゃべっていては、稽古にはならないだろう。自分も相手も満足しているとは思えない。やはり無言で精いっぱい体をつかった稽古をする方が、稽古中も終わった後に、満足したよい顔をしているようである。

また、稽古中に言葉を発することは控えようと思っているが、初心者などの相手があまりに見かねる動きをしたり、やるべきことをやらないと、ついつい言葉を発して注意してしまうこともある。他人のことなのでどうでもよいし、本人が気づいて直していけばよいのだから、注意したり言ってやったりする必要はないと重々承知しているが、たまには言うこともある。そして、たいていは後悔するものだ。

人は他人の話にまずは反発するものだ。すべての人というわけではないが、まずこちらの言葉を疑い、場合によっては反発してくることもある。その反発も、気持ちだけの場合はよいが、心と体で反発する場合がある。そうなると、技をかけても倒れまいと頑張ってくるので、争いになりかねない。

何度かこのような経験をしてみて、なぜ稽古中に言葉を発すると相手に反発心を起させるのか、を考えてみようと思う。

その理由の一つに、「言葉は魄」(「合気真髄」)ということにあると思う。言葉は顕界のものである。形のない幽界で修行しようとしているのに対して、次元の違うものであるので、受け入れが難しくなる。それで、言葉を聞くと反発するのではないかと考える。

合気道の幽界の稽古は形のない世界であり、意識無意識にかかわらず、「言霊のひびき」を求めての稽古であるからだろう。

開祖は「合気道は形のない世界で和合しなければだめです」(「合気真髄」)と言われている。形のない世界で稽古しようとしているものを、顕界の言葉によって現実世界の顕界に引きもどすから駄目なのである。

また、開祖は「形を出してからではおそいのです」とも言われている。つまり、言葉を発してしまっては遅すぎるということである。言葉を発する以前にやるべきことがあり、言葉を発しないようにせよということである。では、形のない世界で和合するためには、どうすればよいのだろうか。

開祖は、地上楽園建設のために世界中を結ぶには、自己を全部ことばで結ぶ、魂の気で結んでいかなければならないといわれている。つまり、世界であろうが、稽古相手とであろうが、ことばで結ばなければならないのであるが、「別な言葉」で自分とすべてのものを結んでいかなければならないということである。この別な言葉とは、魂の気であり、言霊であり、宇宙組織のひびきであろう。

相対稽古では、相手に何かを伝えたい場合や、相手と結びたいと思うならば、魄の言葉ではなく、別の言葉で、そして顕界ではなく、形のない世界で、稽古していかなければならないことになるだろう。