【第310回】 技の形と技

前回までに書いてきたように、技とは具体的に何かとなると、説明することも示すのも難しいが、ひとつ言えるのは、技には法則性があることである。合気道は科学しなければならないと、開祖はいわれたが、科学するとは法則性を求めることである。つまり、合気道の技の形を錬磨することによって、そこから法則性を見つけていくわけであるが、その法則性をもったものが技ということになるのではないだろうか。

開祖は「合気道の技の形は、体の節々をときほぐすための準備です」といわれているが、ここには技に関して二つの大事なことが示唆されている。

一つは、我々が日常稽古している「正面打ち一教」「片手取り四方投げ」等などは「技の形」ということである。一般的に、合気道の技といわれるものである。この技の形は、体の節々をときほぐすための準備であって、合気道の最終目標ではないのである。

二つ目は、日頃稽古しているこの「技の形」の中に、既に「技」があるということである。つまり、それらの技を集めて形にしたのが「正面打ち一教」であり、「片手取り四方投げ」等ということになる。

従って、この「正面打ち一教」「片手取り四方投げ」等などの「技の形」の中から、技を見つけていかなければならないことになる。

しかし、問題はどれが技なのか、何が技なのかということである。分からなければ、技を見つけていくことはできないし、技の練磨もできなくなり、合気道の上達は諦めなければならなくなってしまう。

しかし、技を見つけることと、その技を身につけていくことはできる。 はじめに書いたように、技には法則性があるわけだから、技の形稽古の中で法則性を見つけていけばよいのではないだろうか。法則性を見つけ、それが正しいものかどうか相対稽古で試し、そしてその法則性を身につけていくのである。

これを技の錬磨といい、体の節々のカスをとって合気の体をつくり、そして宇宙と響き合える小宇宙の体をつくっていくことになるだろう。

ますます技の形稽古をしっかりして、法則性をみつけ、技を身につけていかなければならない。宇宙にも小宇宙にも、無限の法則性はあるようだ。気を引き締めて、稽古に励まなければならない。