【第306回】 祈りと時空の超越

開祖は晩年、毎朝、そして事あるごとに、神に祈りを捧げておられた。そして、我々門人によく神様のお話をされていた。しかし、当時は宗教関係者以外の稽古人には、開祖のお話がほとんど理解できてなかったように思う。

開祖は「合気道は、古事記の宇宙の経綸の御教えに、神習いまして日々、練磨していくことです」とか、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で大祓戸の大神がみそぎたもうた。そのみ振舞いより合気道は生まれたのであります」などと言われ、合気道は古事記や神様に習わなければならないといわれていた。

開祖はいろいろな宗教を研究されたと思われるが、祈りの基は祝詞(のりと)だったはずである。しかし、開祖がなぜ事あるごとに祝詞(のりと)を一心不乱に宣(の)べられるのか、当時は理解できなかった。

最近、民俗学者である折口信夫の「古代研究U − 祝詞の発声」を読んで、祈りや祝詞を宣べる意味、開祖がなぜ一生懸命に祝詞を宣べられたかということや、合気道の修行を深めていくために重要であることが、遅まきながら少しばかり分かりかけてきたようである。

祝詞(のりと)とは、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上し、もって加護や利益を得んとする文であるといわれる。
また、昔は神の言葉そのものを指す言葉であったが、現在では神に奏上する言葉の意味となっているようだ。その内容は、まず神名と神徳をたたえてから祭りの趣意を申し上げ、そして神のご加護を祈る。日本人は古来より言葉には霊力が宿るものと信仰し、その言霊 (ことだま) により神さまに申し上げるのが祝詞であるといわれる。

折口信夫によれば、「祝詞(のりと)の神が祝詞を宣(の)べたのは、特にある時・ある場処のために宣べたものと見られるが、それと別の時・別の場処にてすらも、ひとたびその祝詞を唱えれば、そこがまたただちに、祝詞の発せられた時および場処と、おなじ時・処となるとするのである」(折口信夫「古代研究U − 祝詞の発声」)という。

つまり、祝詞を唱えれば、どこにいても、ずっと昔に祝詞が発せられた時と場処にトランスポートするということであり、祝詞を発した神にもなれるということである。祝詞をあげれば、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原でみそぎする大祓戸の大神にもなれるか、少なくともそこでご一緒できるのである。

開祖は、宣べられた祝詞の中でたくさんの神様のお名前を呼ばれていたが、私の記憶では、その多くが古事記にある神様のお名前だったと思う。開祖は我々に、古事記を勉強しなければならないといわれていた。しかし、なぜ大事なのかは分からなかったが、これで少しは分かるような気がする。

つまり、「合気道は、古事記の宇宙の経綸の御教えに、神習いまして日々、練磨していくことです」と言われるように、ここに出てくる神様の居られる時と空(宇宙)にトランスポートし、合気道が目指す宇宙生成化育、地球楽園建設を神様に教わり、そしてそれを合気の技で練磨していくということと考える。

参考文献:
折口信夫「古代研究U − 祝詞の発声」
「合気神髄」