【第238回】 霊体の統一

合気道では技の練磨をするため、相対稽古で相手に技を掛けたり、受けを取って精進していく。相手に技を掛けて、その技がうまく極まればうれしいので、さらにうまく掛かるように稽古していくわけである。

はじめのうちは、稽古を続け、稽古の年数が増えれば技遣いが自然にうまくなると思うものであるが、30年、40年と稽古してくると、そうでもないようだと考えるようになる。確かに稽古を50年、60年と長く続けている方には技が上手で、強い方もいるが、長く稽古をされているわりに、自分を含めてそうでもない方もいるからである。それ故、技が上手になるためには、稽古の年数という稽古量だけでなく、稽古のやり方や内容である質も大切ではないかと考える。

技をうまく極めるためには、まず体が大事であろう。どれだけ理想的な合気の体ができているか、ということになる。理想的な体とは、宇宙が宇宙生成化育のために創造したといわれる、人間として「そうあるべき」体である。

そして、またその体が、宇宙の営みや条理に則って機能するようにならなければならない。蝶やトンボや鳥が飛べるのは、「そうあるべき」体であり、そして宇宙の意志に逆らわずに自然に動いているからといえよう。

しかし、体(肉体)だけでは、技を極めることも動くこともできない。パソコンや携帯もそれを操作するソフトがなければならない。人の場合は、心(精神)である。それでは、どんな心ならばうまい技が掛けられるのだろうか。例えば、どんな物にも屈しないという強い心(意志)、これでいいのかどうかを自らチェックする心、探求する心(探究心)、相手を感じる心、宇宙の法則を感じる心、相手や大自然を思いやる心、などではないだろうか。

もちろん、心だけで人に技を掛けて、技を極めることはできない。心と体が一体となってはじめて偉大な力がでて、うまく技を極めることができるのである。あとは肉体と心の統一してできた偉大な力を、稽古でさらに練り磨いていけばいいのである。これが合気道の稽古であると、開祖は言われている。つまり、「霊体の統一ができて偉大な力をなおさらに練り固め磨きあげていくのが合気の稽古である。」

しかし、心と体を統一しようと霊体の稽古をしてみても、その統一はそうやさしいものではないということが分かる。はじめはどうしても体が主体となり、心はその後ろに隠れてしまうものだ。

特に、力があったり、体力のある人は、体に頼って技を掛ける稽古をしがちで、体が主で心(霊)が従となってしまう。子供たちなどはその典型で、ほとんどを体に引きずられて体でやるといっていいだろう。もちろん子供や初心者は体を主にしてやるのが自然であろうし、それでいい。子供たちや初心者はそれによって体ができてくるし、それに子供たちが体をあまり遣わず、心主体で技を遣うなどは、不自然で不似合いであろう。

はじめは体と心(霊体)が統一して遣えなくとも、体は体で練磨できるだろうし、心も心として磨きあげていけるはずである。しかし、上手な技を遣いたいなら、ある段階からこの霊体統一の稽古をしなければならないだろう。それまで練り上げてきた体と心を、統一して遣うのである。

この異質で別モノを一緒に遣うためには、その二つを結ぶ媒体が必要である。それは、「呼吸」であると考える。この呼吸を、開祖は気合いとも声とも言われているのではないか。開祖は「声と肉体と心の統一ができてはじめて技が成り立つのである」といわれているので、体と心と呼吸(声)の統一ができなければ技ができないということになろう。

呼吸によって霊体の統一をはかり、偉大な力を得、それをさらに練磨していく稽古をしていきたいものである。