【第235回】 極意と道歌
習い事をすれば、誰でもその最も深遠なところにある事柄に到達したいと思い、稽古を続けているはずである。それを、極意を会得するとか、奥義を極めるというのだろう。
極意と奥義はほぼ同じ意味であるようで、意味は「技芸などで、最も深遠で到達し難い事柄」だという。簡単にいえば、「そのあるべき姿」ということになるのだろう。
合気道にも、目指すべき極意はある。開祖は合気道の極意を、「己の邪気をはらい、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我はすなわち宇宙』なのである。」と言われている。
このように、開祖は合気道の極意は示されているわけだ。また、その極意を会得するための合気の技もつくられた。合気の技を練磨すれば、極意に達することができるということなのである。
しかし、現実には極意に達するのは容易ではない。開祖は、どうすれば極意に達することができるのか、どのように技の練磨をすればいいかなどのご説明は、一部の弟子に与えた口伝を除けば、具体的にはほとんど残されていないといえるだろう。
だが、極意に達するための道しるべとなるものがある。それは、開祖が残された道歌である。道歌はそのあるべき姿も表しているが、道しるべも示している。
開祖は100以上の素晴らしい道歌を残されている。独善と偏見で、極意の境地と道しるべを歌っていると思われる歌のうちの、自分の好きな歌をいくつか挙げてみると:
<極意の境地>
- 合気とは 解けばむつかし道なれど ありのままなる天のめぐりに
- ありがたや 伊都とみづとの合気十 ををしく進め瑞の御声に
- 天地に 気結びなして中に立ち 心構えは山彦の道
- 武産は 御親の火水(いき)に合気して その営は岐美の神業
<極意への道しるべ>
- 又しても 行詰るたびに思ふかな いづとみづとの有難き道
- 右手をば 陽にあらわし左手は 陰にかえして敵をみちびけ
- 合気とは 筆や口にはつくされず 言ぶれせずに悟り行へ
- 合気とは 万和合の力なり たゆまずみがけ道の人々
- 真空と 空のむすびのなかりせば 合気の道は知るよしもなし
- 教には 打突拍子さとく聞け 極意のけいこ表なりけり
このような道歌には、合気道の極意とそこに至る道しるべがあるのではないだろうか。われわれ稽古人にしてみれば、道歌の内容を文章で残して頂いたほうが理解しやすかったような気がするが、今や遅しである。しかしながら、やはり道歌のままの方がいいのかも知れない。なぜなら、開祖は道歌でしか合気道の極意を表現できなかったのかもしれないし、またその方が微妙な表現ができるとお考えになられたのではないかと思うからである。
文章というものは、主に理性を司る左脳を使って論理的に表現したり理解するものであるが、道歌は絵や音楽などと同じように、右脳で直感的に感じるものであろう。道歌は頭で理解するというものではなく、心で感じるものであるだろうから、イメージをいくらでも大きく深く、宇宙まで広げていくことができるはずである。
合気道の極意は、宇宙と一体化するためのものであろうから、ごたごた頭でこねくり回すのではなく、素直に体で感じていくほかないだろう。だから、道歌なのだと考える。
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