【第231回】 殺して活かす

合気道は武道である。武道とは本来、命のやり取りのための技を練磨するものであろう。そこが武道とスポーツや遊戯と根本的に違うところであると思う。 命のやり取りを前提にした武道の鍛錬は、時代や社会の状況によって変わってくる。戦国時代の鍛錬は今とは大きく違うだろうし、今の我々などとても出来ない鍛錬だったと想像できる。従って、戦国時代や江戸時代や明治時代の稽古法を現代やろうとしても、稽古についてこられる人は皆無だろう。

しかしながら武道であるからには、現代においてさえも武道として最低順守しなければならない条件があるはずである。
それは、一言でいえば「殺す」ことではないだろうか。
勿論、今の法治社会で人を殺めることはご法度であるし、殺める必要などもない。時代とともに、この「殺す」という概念は変わらなければならない。

現代の武道で「殺す」というのは、相手を納得させるという意味と考えたい。人は言葉を遣い、話したり、文章を書いたり、また身ぶり手ぶりでいろいろな動作をするが、これは人に納得して欲しいというためだろう。
合気道で相対稽古の相手に技をかけるにも、相手に納得してほしいと思っているはずである。もし、相手を納得させて、"参った"と思わせることが出来たら、それが相手を「殺した」ということになると考える。

合気道の稽古で、相手に技を掛けて、それが本当に効けば、相手はこちらとくっついてしまい、一体化してしまうので、こちらの思う通りに動かせることになるので、相手は自由がなくなり、殺されたことになる。

しかし合気道の面白さは、殺しておいて活かすのである。
相手を殺していれば、後は相手を自由にすることができるようになるから、本当に殺すことはない。殺していれば更に投げたり、痛めたりする必要もない。後は相手の好きなようにさせればいい。そうすると大抵の場合、自ら倒れたくなるので、こちらが無理に倒さなくともひとりで倒れてくれることになる。これが相手を自由にさせるという、武道的な活かすとうことであろう。

従って、殺さなければ活かすことは出来ない。相手に技を掛けても、殺せずに相手がまだ生きていれば、なんとか殺そうと無理にするので、本当に殺してしまうことになり、死んだり、怪我をさせてしまうのである。
相手を活かすためには、まず殺さなければならない。殺すから活かせるわけである。それが武道の厳しさである。