【第226回】 魂が魄の上

開祖は、魂が魄の上に来なければならない、第二の岩戸開きをしなければならない、と言われた。確かに、今はまだ物質文明で、力とモノが世の中を制しているから、これを変えていかなければならない。合気道を志す同士がそう思えば、世の中に多少の影響を与えることはできるだろう。だがその前に、合気道家としては、「魂が魄の上になる」稽古をしなければならないだろう。

名人・達人は出来るだろうが、一般の稽古人はまだまだ力、魄に頼った稽古が多いようだ。もちろん、魄の稽古も必要である。特に、若い内は理屈抜きで魄の稽古で肉体を鍛え、力をつけなければならない。合気道に力は要らないなどの迷信に惑わされずに、力をつけるべきである。

しかし、ある段階に達したら、それまでに蓄えた肉体と力のわがままを抑える稽古に変えていかなければならない。ある段階というのは、一つは上達のレベル、例えば、五段、六段であり、二つには年齢である。60、70歳になってもパワーの稽古をしているのは不自然であろう。

合気道の稽古で「魂が魄の上になる」稽古とは、どういうものかと考えてみると、こころの先導によって体を動かしたり、遣うことといえるのではないだろうか。こころは気持ちであり、精神であり、魂でもある。

こころ(魂)は自由であり、どんなに早くも遅くも動く。美しいリズムと軌跡のこころ(魂)で、自分の体を導き、そしてこころで体の動きを修正、改善するのである。こころ(魂)が体(魄)を遣うのである。

これに対して、魄が魂の上の稽古は、体が自由奔放に暴れまわってしまい、こころで制御できないような稽古である。子供たちの稽古を見ればよく分かるはずだ。こころで体を制御できないので、見ていてもハラハラする。

こころが体をうまく遣うためには、はじめはゆっくり動く稽古がよいだろう。ゆっくり動くことによって、こころが体の動き、体遣いをチェックしたり修正できるからである。

体はこころに従って動けるようにならなければならない。ここで再度、体の新たな鍛錬が必要になる。こころで体を監視していると、どこが弱いのか、機能不全なのかが見えてくるものだ。弱いところは力をつけ、動きの悪いところのカスを取って、すこしでもこころの命ずるままに動けるようにしなければならない。

体がこころのままに動けるようになれば、電光石火でも動けるようになるはずだ。こころは自由で、光よりも早い。もしこころのままに体が動くことができれば、理論的には光より早く動けることになる。しかし、現実としては、こころの働きが邪念、盲想などに邪魔されたり、体にカスが溜まったりしているので、それ相応にしか動けないことになるわけである。

こころは光よりも早いだけでなく、まわりのものとも瞬時に共鳴するようだ。イワシの大群が大きな魚の群れに襲われたときのイワシの動きは、まるで一匹が動いているように、いっせいに瞬時に方向を変えて、反転する。 合気道の稽古でも、「魂が魄の上になる」稽古では、力で相手を導くのではなく、こころで共鳴し合い、こころで一体化して動くということかもしれない。

今のところ、こんなところが合気道における「魂が魄の上になる」稽古ではないだろうかと考えている。