【第212回】 顕界の稽古、幽界の稽古

人間は見た目が、みんな違う。男女、大小、太痩などなど、ひとりとして同じ人はいない。また、その人の境遇もみんな違う。生まれた国や地域、金持ちとか貧乏とか、子宝に恵まれているとか恵まれない等など違っている。

ひとりひとり外見やしていることは違っているが、それでもなにか同一のものを求めているように思える。例えば、今もそうだし、過去もそうであったと思うが、富、権力、名誉である。これは、どの国、いつの時代にも、人が求め続けてきたものであろう。このために人は争い、競い合ってきたといえるだろう。これは歴史が証明している。

合気道は、争いをなくす世の中をつくるべく、植芝翁がつくられた武道であり、哲学であり、宗教である。合気道の目標は、争わない世の中をつくることにある。それ故、合気道の稽古でも争いにならないようにしなければならないはずである。稽古で争っていては、争いのない世界などつくれるわけがないだろう。

では、どうすれば争わないように稽古ができるかということになるが、そう簡単ではない。合気道は武道であり、相手の戈(ほこ)を止める技であるわけだから、相手に倒されてしまっては武道にならない。争わないで、相手に倒れてもらわなければならないのである。

美しい旭日や夕日を見れば、どの国どんな時代の人でも美しいと思うだろう。また妙なる調べの音楽を聞いたり、小鳥や虫の鳴き声を聞いても、誰でも心地がいいだろう。モナリザの絵を見ても、幼い子供たちの笑顔を見ても心が和むだろう。

人は誰でも、共通して共感するものを持ち合わせているし、そして、それに共感したいと思っている。それは、普段の意識する世界ではなく、無意識の世界のものであるようだ。合気道では、この世界を「幽界」といっていると考える。

顕界はこの世に現れた世界、という。ふだん顕界に生きている人は、目に見えるものだけを信じ、目に見えるものに対応しようとする。合気道の相対稽古でも、相手が大きいとか力がありそうだとか、弱そうだとか意識して、緊張したり、張りきったりして稽古をしているだろう。これは見えるものにそれぞれ対応する顕界の稽古といえるだろう。

もちろん、この顕界の稽古も大切であり、誰もがこの稽古を十分経験しなければならないと思うが、顕界の稽古に止まっているだけでは駄目だろう。顕界の稽古に止まれば、忙しくてきりがない。稽古相手はひとりひとり違うし、幾らでもいるからである。そのひとりひとりにその都度対応しなければならないわけである。時には、体力のある、力自慢とやるかもしれないし、ひ弱な女性の初心者にあたるかも知れない。力負けして自信を失ったり、または相手に怪我をさせてしまったりしてしまうかもしれない。

それよりも、すべての人の共通項を見つけ出し、その共通項を増やし、そしてそれらをどんどん深めていく方がいいはずである。共通項とは、性別も体格も国籍も上級者初心者など一切関係なく、すべての人に共通するものである。それが技であり、術といえるのだろう。その技(術)を遣えば、誰でも同じような反応をし、倒れてくれるようなものである。

逆の言い方をすれば、もしその技が誰にでも有効で、誰でも喜んで自ら倒れてくれるとしたら、その技は人の共通項を捉えたものであるといえるだろう。ある人には効くが、他の人には効かないというものは、共通項ではなく、まだ顕界の稽古に止まっているといえるだろう。

それでは顕界の稽古と幽界の稽古の違いはなんだろうか。言うならば、顕界の稽古は見える世界の稽古であり、そして、幽界の稽古は見えない世界の稽古と言えるのではないだろうか。また、顕界の稽古は魄の稽古で、幽界の稽古は魂の稽古といえるのではないだろうか。

魄とは肉体的なパワーであり、魂とは心、精神ということになるだろう。幽界の稽古とは、パワーに頼らずに、魂(精神、心)で相手の魂(潜在意識)に働きかけて相手を倒す稽古ではないだろうか。

次回はこの続きとして、「幽界の稽古」と題し、魂の稽古について書いてみるつもりである。