【第209回】 大なる愛の攻撃精神

合気道には試合がない。技も相手を攻撃するものではないし、攻撃することは教えない。従って、剣や杖や拳でも、打ち方や突き方などは教えない。

しかしながら、合気道には太刀取り、杖取り、短刀取り、拳の突きの返し技などが昇段試験にあるのである。剣や杖がうまく振れないのに、相手が打ってきたり、突いてくる剣や杖を捌いたり取ったりすることなどできない訳だから、よく考えてみればおかしな話である。

短刀取り、太刀取り、杖取りが試験にあるなら、これらの得物の振り方や扱いを教えてくれてもいいのではないかと、かつては思ったものだ。しかし、ここが合気道のおもしろく、奥の深いところなのだ。所謂、裏と表の陰と陽である。合気道では振り方は教えないが、振れなければならないのである。

剣や杖の振り方は教えないが、振ってはいけないとはいわない。ほとんどの合気道の道場には、木剣や杖が備えられている。教えないが、各自で素振りなどして稽古しなさいということであろう。

合気道は技の練磨をして精進するものだが、ある段階以上にいくためには剣と杖を振らなければならないはずである。合気道の技の多くは、剣や槍の動きからきているからであるし、体の遣い方にも多くのことを学ぶことができるからである。

しかし、道場では教えてもらえないわけだから、自分で工夫して稽古をしていかなければならないことになる。攻撃のための素振りの稽古である。表では教えてもらえない裏の稽古ということになる。やらなければ太刀取りも杖取りもできないし、技の上達もないはずである。また、攻撃は最大の防御といわれるように、攻撃の技と力がなければ、十分な防御はできないはずでもある。

ここで考えてみなければならないことだが、合気道の技は攻撃のための技でないし、争うものでもない、といわれるため、打つ方も受ける方も手加減するようになりがちである。また、攻撃を受けて技を掛ける方は、合気道は攻撃技ではないので、相手の攻撃を待って、それに合わせて技を掛けるものと考えてしまうようだ。

しかし、合気道は武道である。武道の中には武術という、相手の攻撃およびその心を制する技がなければならないはずである。従って、合気道の相対稽古でも、相手の攻撃を待つような受け身の稽古をしてはだめだろう。だが問題は、こちらから攻撃してはだめなのである。稽古するにあたっては、このジレンマは解決しておかなければならない重要事項であろう。

開祖は「合気道は試合は厳禁だが、その実は大なる愛の攻撃精神、和合、平和への精神である。それがために自己の愛の念力(念波観音力)をもって相手を全部からみむすぶ。愛があるから相手を淨めることができるのです。」(「武産合気」)と言われている。

つまり、受けて技をかける場合にも、攻撃精神を持たなければならないというのだ。ただし、その攻撃精神は大いなる愛の精神でなければならない。愛の精神とは、相手のため、そして宇宙楽園建設のためにやる(技を掛ける)のだという精神であろう。その愛の精神が、愛の念力となって相手を絡み取り、そして結んでしまえということだろう。この大いなる愛の精神は、相手をからみ結ぶために、相手が攻撃しようとする前に発せられ、からみ結んでしまうわけだから、大きな意味で、先制攻撃をしていることになるだろう。

合気道は攻撃の武道ではないが、受けの武道でもない。いうならば、大いなる攻撃であり、受けの武道であるということができるだろう。攻撃と受けが表裏一体となった、陰陽備わった武道といえよう。