【第202回】 技と業

合気道は技を練磨して精進するものである。しかし、合気道の最終目標は技を覚えることではない。それでは、技を修練して何を会得しようとしているのかが問題になる。それは一つではないだろうが、その一つに「業」の会得があるはずである。

「技」とは目的を達成する技術、技巧ということが出来るだろう。合気道には四方投げとか小手返し等の技があるし、空手や柔道や剣道にもいろいろな技があるだろう。人間くさく、人間の性(さが)であるといえよう。

これに対して「業」は、目的や分野に関係なく、時間や場所や対象を超越した働き、動き、行為と言えるだろう。これは、人間を超越したものということになろう。自然で、美しく、誰をも説得する、そして時として強烈で、すべてのものを破壊する働きをする。

神様のお働きを、人は「神業」という。神様が小賢しく「技」など遣うはずはないからであろう。「神技」という場合は、人間が神様のような働きや動きをしたことをいうのであって、神様のことではないだろう。

合気道は一教や二教という「技」を繰り返し練習して上達していくが、一教や二教の技をただ繰り返し稽古しても、上達はある時点で止まってしまうはずである。なぜならば、「技」を「技の形」と混同しているからである。つまり、「技の形」を覚えることが稽古と思ってしまうので、繰り返し稽古をすることによって上達すると思ってしまうのである。

「技の練磨」を、私は「技要因の練磨」と考えている。この「技要因の練磨」というのは、「技」を構成する要因(ファクター)を見つけ、自分の技に取り入れていくことである。このファクターは人工的な技を超越した、自然の営みと合致するものでなければならない。

合気道の「技」には、このファクターが無限にあるようなので、人間が一生かかっても全ては会得できないはずである。この意味からも、合気の修行に終わりがないのである。

「技要因」が非人工的で自然であるということは、「業」ということになろう。つまり、合気道で技の練磨をするということは、「業」を会得するということになる。自然で、宇宙の営みの「業」を身につけていくことである。従って、「業」を「神業」とも言えるので、「神業」の鍛錬ということができるだろう。

「技」には形があるが、「業」には形はないはずである。開祖は、「合気道は形はない。」とよく言われていたが、形がある「技」の会得が合気道の目標ではないぞ、と言われていたのではないかと考える。

しかし、物事には順序がある。形のない「業」を会得するためには、形のある「技」を練磨しなければならないはずである。「技」の形がしっかり出来ずに「業」は会得できないし、宇宙の道に結び付かないはずである。

「技」を練磨し、「業」を会得する、そうすれば宇宙と繋がり、宇宙の力が加わることが出来るのではないだろうか。開祖は、「この(合気)道は宇宙の道で、合気道の鍛錬は神業の鍛錬である。これを実践してはじめて宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである。」と言われている。