【第181回】魂魄の調和

だいたい人は物事を自分の都合のいいように解釈し、都合の悪いものには目をつぶったり、避けたりしがちなものである。また、人間社会には、理想と現実という問題もある。理想と現実のギャップは大きいし、ギャップはなかなか縮まらない。だが、理想を達成するのには、現実を出発地点とするしかない。

今の稽古人の多くには、ひとつの思い込みがあるように思える。「合気道は力が要らない」「体力がなくても出来る」などである。しかし、実際問題として、力がなければ技は遣えないわけだし、力はあればあるほど技を遣いやすいはずである。力はあった方がないよりよいし、あればあるほど、つまり力は強ければ強いほどよいはずである。

強い力を出すためには、肉体がしっかりしなければならないから、体を鍛えなければならない。合気道の相対稽古で投げたり投げられたりしていても、体力はつくだろうが、肉体の重要さを認識して、体を鍛えることを意識して、相対稽古や自主稽古をする必要があるだろう。

合気道は魂の学びであり、力は要らないとの教えであるが、多くの稽古人はこれを誤解しているか、自分の都合のいいように解釈しているようである。まず、魂の学びなのだから、魄(肉体)の学びではないと思いこんで、体を鍛えることを軽視し、体を鍛える稽古をしたがらないことである。

次に、合気道では力が要らないというので、力をつける稽古はやる必要がないと考えていることである。しかし、これは間違いで、「力は要らない」というのは、技で相手を倒すのは力で押し倒すのではなく、相手が自ら倒れるようにするが合気道であり、それには力は要らないものだ、ということなのである。だが、相手と一体となったり、崩したり、くっつけたり、倒れる状態にもっていくためには、当然、力は要るし、あった方がいい。力は出来るだけつけよ、されどなるべくその力を最少限に使用せよ、ということであると考える。

肉体(魄)がしっかりしていなければ、心(魂)が安定しないものだ。魄を否定したり軽視しないで、まずしっかり体を鍛え、鍛えた肉体の上に心(魂)を鍛えていくようにする。それが、魂の学びである。心が体のようにしっかりしてくれば、魂魄が協力し合う魂魄阿吽の呼吸となろう。心が肉体の上になるように、修練していく。これが開祖が言われていた、「魄が下になり、魂が上、表になる」(「合気真髄」)ということだろう。

現代は、物の世界、魄の世界であり、力の世界である。だから、世の中に争いが絶えないと、開祖は言われた。争いのない世界をつくるためには、魂の世界、魂が魄の上になる世界をつくらなければならないという。

このお手伝いをするのが、合気道であるといわれている。合気道の稽古人は、このような世界が少しでも早く実現するために、修行をしていかなければならないが、現実的にはなかなか難しいことである。日常生活においても、まだまだ物質に依存しなければならない状況にある。経済的に安定しなければ、心(魂)の安定もないだろうし、心を鍛えることも難しいだろう。「貧すれば鈍す」であるからである。

まずは、経済の基盤ともいえる肉体という魄をしっかり構築し、その上で、心(精神、魂)を磨いていくのがよいだろう。魄をしっかり鍛える必要がある。
魂は重要であるが、物事には順序、やるべきことがある。焦らずにやるべきことを順序よくやっていくべきだろう。