【第173回】 意識、技術、理念

人がよい仕事をするためには意識と技術と理念が大事である。絵や書道、彫刻、生花などは、その典型であると言えよう。これらでのよい作品というのは、意識と技術と理念で満たされいるはずである。

仕事に気持ちが入らず、気の入ってないまま仕事をやれば、決していい成果は上がらない。また、技術系の技術だけでなく、文系でも知識や情報の分析や応用、話術など、いわゆる技術(テクニック)が必要だろう。

さらに、仕事は何かを生み出し、それが人のためになるから、その対価としてお金を産み、利益を上げるわけだが、その理念を忘れたり無視して儲けようとすると、よい仕事にはならないはずだ。儲ければよいとばかり、仕事の理念を忘れ、踏むべきプロセスを踏まなければ、よい仕事にならないだけでなく、高じれば犯罪を犯すことになるかもしれない。

合気道の道場稽古でも、相手に技を掛けるときは、この意識と技術と理念をもってしなければならないだろう。意識の入っていない、いわゆる気の入っていない動きでは、力も出ないし、相手と結ぶこともできないので、相手は満足して倒れてくれない。だから、意識を入れた稽古をしなければならない。

また、合気道は武道であるから、技が未熟であれば相手は倒れてくれない。合気道は技の練磨を通して合気の道を精進するので、技が大事であるかどうかの問題ではない。技が出来なければ合気道にはならない。技を少しでもよくするように、練磨しなければならない。

次は、理念である。相手が倒れればいいとばかり、稽古相手を投げ飛ばして喜んだり、得意になって抑えても、相手は納得しないものである。おとなしく受けをとってくれているか、仕方がないと思って我慢しているだけであろう。そんな稽古をしていると、相手を怪我させたり、自分の体を壊したりすることになる。相手が満足しないのは、理念を欠いてやっているからである。

理念とは、「物事のあるべき状態についての基本的な考え」と言われているから、合気道の稽古で相手に技をかける場合、合気道の理念を伴った技をかけなければ、相手は満足しないし、自分自身も納得出来ないことになる。

合気道には深淵な理念がある。合気を追求する道であるから、合気に反することをやってはいけないわけである。合気はいろいろな解釈ができるので、人によって合気に対する理念は違うかもしれないが、その理念に合った稽古をしなければならない。例えば、合気を「生成化育にある宇宙の営みと一体化すること」とすれば、稽古はその道に沿って行わなければならないことになる。もし、受けの相手を苛めたり、傷めたりすれば、それは宇宙の法則に反し、宇宙の営みと一体化出来ないことになるから、間違いということになる。

意識、技術、理念の一つでも欠ければ、よい「わざ」(技・業)は出来ないし、相手も自分も満足することが出来ない。合気道の上達もない。意識、技術、理念の伴った稽古をしていきたいものである。