【第168回】 気形

合気道は技を練磨して先へ進む修行の道であるが、この技がなかなか上手くできないものである。初心者の内は誰でも、合気道の技は簡単だと思うだろうが、やればやるほど技の難しさが分かってくるものだ。初心者は技の形を覚えれば、技が分かったと思ってしまうのだが、形をなぞっただけでは技にはならない。相手が頑張ったり、腕力があったりすれば、効くものではない。初心者も、年月を重ねるにつれてだんだん自分の技の未熟さと技の難しさが分かってくる。技の難しさと技の深淵さが分かってきて初めて、本格的な技の稽古ができると言えよう。

技を上手く遣うためには、無限とも言える条件ファクターがある。それを一つづつ見つけ、自得していくのが稽古ということになる。技を上手く遣うためのファクターの一つに、気形がある。開祖は、「合気の稽古はその主なものは、気形の稽古と鍛錬法である。」と言われている。合気道の重要な稽古である。

晩年の開祖は、相手に触れることなく導いたり倒したりされていた。見事なものであった。あれが、気形の稽古だったのだろう。しかし、昔、道場で休み時間に先輩がそれを真似してやっているのを、開祖が遠くからご覧になっていたらしく、ずかずかと道場に入って来られると、そんな稽古をするなと激しく叱られた。我々にはまだ出来ないのだという。まずしっかり持たせたり、打たせた稽古をせよとのことだった。

気形というものは、自然の気の動きに心(意識)が結びつき、それに体が随い、体が自然に動く、無駄のない、美しく、盤石な軌跡の一連の形をいうと考える。この自然の動きとは宇宙の運行とも一致し、強く、正しく、美しい姿であり、敵をつくらない愛の形であるといえよう。一連の軌跡である気形は、美しくなければならないわけだから、自然でなければならない。自然とは、宇宙の法則にあったものであるということである。

気形における宇宙の法則にはいろいろあると思うが、その一つに十字があると思う。宇宙は縦と横が円を描くことによって螺旋となり、いろいろなものを創造しているといわれる。合気道は十字道ともいわれているが、気形の稽古に至る道として、十字々々に体を遣って技をかけていくことに注意するのがよいのではないか。

一番分かりやすいのは「片手取り呼吸法」であろう。手の平を地に対し直角にして持たせたところから、手の平が上を向くまで90度返して、そしてまた直角に、今度は手の平が下を向くように90度回転させ、手の平が地面と平行になったなら、その手の平を直角に立て、相手を切り下ろすようにして相手を倒す。相手を抑えるだけならば、この垂直の手の平を上向きに90度回転する。

もちろん合気の技はすべて十字で遣わなければならないはずである。ただ回転の角度や90度に回転、反転する順序が多少変わるだけだろう。

相手に多少強く持たれても、この十字の手の動きができて、無駄のない軌跡が描ければ、相手が掴んでこなくとも相手を導き、倒すことが出来るようになるはずである。というより、そうなるように稽古をしなければならない。それが合気の主な稽古であるからである。しかし、これを表面的に頭でなぞってやっても、決して上手くいかないはずである。それは開祖が前述のように戒められている。がっちり持たせたり打たせるような、しっかりした稽古の中で、この気形も会得しなければならない。