【第134回】 ぶつかってぶつからない

このテーマは以前も書いたことがあるが、最近の稽古でこの大切さが再認識されたので、この「ぶつかってぶつからない」を再度取り上げてみたいと思う。

合気道は、世にあるものすべてが陰陽、表裏、正反と、一対になっていることを教えてくれる。陰陽、表裏、正反一対で完全であり、安定し、美しく、そして強く、説得力ができる、という思想である。

その教えの例の一つに、「ぶつかってぶつからない」という正反一対の教えがある。禅問答のようだが、この合気道公案が解けないと技が上手く掛からないし、合気の上達も止まってしまうことになる。

他の武道でもそうだろうが、合気道でも創始者が言われたり書かれた言葉には大事な意味があるので、それを大事にしなければならない。ただ念仏のように唱えるばかりではなく、その意味することを深く掘り下げて考え、自分の体で試し、自分のものにしていかなければならない。

「ぶつかってぶつからない」ということは、大先生(開祖)からよくお聞きした言葉と記憶しているから、これは大事なことであるはずだ。

ここには、二つの矛盾することが言われている。「ぶつかれ」ということと、「ぶつかるな」ということである。

まず、合気道の相対稽古では「ぶつからなければならない」。何をぶつけるかというと、一つは体(身体)である。自分の体を相手の体の中心にぶつけるのである。中心線をはずしたり、体が逃げていては駄目である。二つ目は、「気」(気持ち)である。これも逃げずに相手にぶつけなければならない。これを開祖は「体の体当たり」「気の体当たり」と言われていた。

稽古相手に「体の体当たり」「気の体当たり」をして「ぶつかる」のはそれほど難しいことではないだろう。これは他の武道やスポーツでもされていることである。この典型的なものに相撲があるだろう。大先生は相撲を魄の最高のものであると言われていた。

さて、「ぶつかった」次は「ぶつからない」、「ぶつかっては駄目だ」という。ここが分かり難いだろう。

初心者は、まず「体の体当たり」「気の体当たり」が満足にできないで、「ぶつかれない」か、またはぶつかったままで技を遣おうとするから、「ぶつかってぶつかる」ことになってしまうのである。

それでは「ぶつかってぶつからない」とはどういうことか、またどうすればいいのかということになる。

ぶつかるということは、相手と自分が接することである。「ぶつかってぶつからない」ためには、相手と接するが、深く入り過ぎず、しかし浅からずぶつける、つまり接するのである。ぶつかって結んでいるところは、自分と相手の接点であり境界線になるので、この境界線上は共有の道(軌道)となる。持たれた手はこの共有の軌道上を動かせば、「ぶつからないで」動かすことができる。そこで容易に相手を導き、相手をくっつけてしまい、自分の一部にしてしまうことができるのである。自分の円に入れてしまえば、自分の一部になるから、自分の思い通りに動かせる。だから、容易に崩すことも抑えることもでき、そこには争いは起きないことになる。つまり、「ぶつかってぶつからない」のである。

相手との接点が深すぎたり(強すぎたり)、浅すぎたり(弱すぎたり)したり、境界線上以外の軌道を動いたりすると、「ぶつかる」ことになってしまう。

この「ぶつからない」理合が分かり易い技は、四方投げ(特に、片手取り)、座技呼吸法、片手取り呼吸法(写真)、諸手取り呼吸法、一教(特に、裏)等であろう。しかしながら、腹と手がしっかり繋がっていないと「ぶつからない」はできないので、まずは「ぶつかって」「ぶつかって」また「ぶつかって」、手と腹を鍛え、そしてその双方を結ぶ稽古に励むのが先決である。