【第130回】 気の働き

気はかって氣と書いていた。気とは米を蒸して出る湯気のようなものだという。昔から、宇宙や人体には目に見えないが、膨大なエネルギーがあり、宇宙や人体に大きな力を与えてくれることを人は実感してきている。

合気道では、「こころと肉体と気の三つを宇宙万有の活動に調和させ、そしてこの三つの鍛錬を実行してこそ、真理の力が心身に加わる」(「合気真髄」)という。 人間の身体は、目に見えるハードな部分の肉体と目に見えないソフトの部分のこころで構成されている。しかし、ここで人間は常に一つの問題にぶち当たる。こころと肉体がなかなか一致して機能しないことである。肉体が大きいからこころが大きいということでもないし、こころで肉体を思うように制御するのも難しい。時として、肉体によってこころが病むこともある。肉体とこころを調和して働かせるのは容易ではない。

バラバラである肉体とこころを一緒に働かせるようにしなければならないが、それにはどうすればよいかということになる。次の開祖の肖像画を見ていただきたい。この絵は開祖がお腹に玉を抱え、胸に鏡を置き、背中に剣を背負っておられるもので、三種の神器を持たれているのである。この玉はふつうにいわれる丹田、さらに細かい分け方でいえば下丹田といわれる所にあり、剣はいわゆる上丹田に置かれ、鏡は中丹田とされる位置にある。

下丹田(腹)は肉体の力をあらわすとされ、剣があるのはこころ(精神)を表す上丹田(頭部)である。そして、鏡は上丹田と下丹田の間にある中丹田(胸)にあるが、中丹田には上丹田と下丹田を結ぶ働きがあるとされるのである。中丹田は気の働きの中心となるところなので、気とはこころと肉体を結びつけるものということができよう。

こころと肉体だけでは人は絶対に生きていけないという経験を、若いときに一度している。前の晩、夜更かしをしてあまり寝ていないのに、翌日公園にあるビアガーデン(屋外の広いビール飲み場)に行き、女房と一緒に炎天下でビールを飲んだ。その帰りに店で買い物をしたが、急に気分が悪くなり表に出て座り込もうとした。表に出るには出たが、気持ち(こころ)では坐ろうとし、体もその体勢をとろうとしたのに、一気に気が失われていくのが感じられた。

そして、立ったままで硬直状態となり、木が倒れるように横倒しになったのである。座り込むことも、手を付く事さえも出来なかった。倒れた原因はこの「気」の喪失であったと考える。こころと肉体は、まだ大丈夫だとバラバラに働こうとしたが、その両者を繋ぐ「気」が無くなってしまったので、身体が機能しなくなってしまったのだろう。有難いことに数分間後に「気」が入ってきたようで、蘇生することができた。その経験から、「気」とは人間の体においては肉体とこころ(精神)を繋ぐ生命エネルギーとかエネルギーということだろうと思う。

合気道で技を相手に掛けるとき、こころだけが焦って体がついて行かないときは、技が上手く掛からないし、肉体だけが無闇に動いてもこころが入っていなければ技は掛からず、相手も自分も満足することはできない。こころに肉体を載せて、肉体がこころの望むとおり、出来るだけ正確に働くようにしなければならない。そのためには、中丹田がこころ(精神)と力を結び、中丹田から息と意思によって気(エネルギー)を流し、上下の両丹田が連動して働くようにするのである。気で両丹田が結ばれれば、気は手足の隅々、体中に満ちてくる。こころと肉体とに結ばれた気で技を掛けると、肉体中心でやられる場合と違って、相手の抵抗力がなくなり、相手がくっ付いてしまい、相手とも一体化しやすくなるようだ。

合気道は気育・知育・徳育・体育・常識の涵養であるから、気が分かったならば、今度は気を十分練らねばならないことになる。武の気は渦巻きの中に入ったら無限の力が湧いてくるといわれるから、気を練るには、まず合気道の稽古で技を渦巻き(螺旋)に遣って、それに気を載せた修練をすればよいのである。

とはいえ、開祖は「こころと肉体と気の三つを宇宙万有の活動に調和させよ」と言われる。道はまだまだ遠いようである。

参考文献:
 『合気真髄』
 『植芝盛平 生誕百年合気道開祖』