【第110回】 相手がいて相手がいない

合気道の稽古は、通常二人で組んでやる相対稽古である。しかし、柔道のようなスポーツと違い、二人が勝負をするわけではない。どんなに段が上のものも、公平に半分は必ず受けを取らなければならない。本来段の下のものが上の相手を投げたり、抑えたりするのは出来るわけはないわけだが、上のものはそれを知りながら受けを取るのである。合気道をよく知らない人、スポーツなど勝負の世界にいる人は、八百長とか馴れ合い稽古と思うだろうが、この合気道の相対稽古法には意味がある、素晴らしい稽古法である。この素晴らしさが理解でき、日常生活で実践できるようになれば、世の中はよくなると思う。

本来なら倒れないはずの高段者が、受けを取って倒れる。ここに、合気道の妙味がある。「わざ」をよく知っている高段者は、「わざ」が出来ない相手に技を掛けて導くだけでなく、受けをとりながらも正しい方に導いてくれるし、高段者が倒れることによって、技を掛けた相手はその反応がよく分かり、自分の掛けた技がよかったのか駄目だったのか、どこが悪かったのか等まで分かる。また高段者も受けを取ることによって、相手の長所・短所、強いところ・弱点を見つけ、悪い点は自分もそうならないよう注意し、いい所は自分に取り入れていくことが出来るのである。つまり相対稽古は二人が補足し合い、一つになってしまうことであるといえよう。

相対稽古では、一人が相手の手などの体の一部を掴んだり、抑えたりする攻撃法が多い。当然攻撃する方は、真剣に気を入れて掴んだり、抑えてこなければ稽古にならないが、これは勝負ではないので、それと争ってはならない。

ところが、現代人はしっかり掴まれたり、抑えられると、それに負けまいと力んでしまう。これまでの人類の生存元となっている闘争本能の遺伝子がむくむく起き上がってくるのだろう。合気道は争いのない世界を目指しているはずだが、稽古で争っていたのでは争いのない世界ができるわけがない。例えどんなにしっかり抑えられても、争わないよう稽古をしなければならない。

争いのない稽古をするためには、ある程度は合気の体をつくって、折れない手とか手足と腰が結んだ体にしなければならない。それが出来たら、考えを変えることである。つまり稽古相手は敵ではなく、自分の味方、自分の分身、自分の一部であると思うことである。

手を掴まれるのではなく、手を掴んで貰っていると思うのである。相手が掴んで頑張ってくれれば、それだけいい稽古ができる訳である。掴ませているところに感じる抵抗や重量は、手にバーベルや鉄亜鈴を持っているのだと思えばよい。自分で持って負荷を掛けなくとも、相手が持って負荷を与えてくれるのだから、有難いことである。従って、攻撃して来てくれる稽古相手には感謝しなければならない。

合気道の技は宇宙の法則に則っている。その法則に則ったように「わざ」を行なえば、相手は倒れ、抑えることができるはずである。その法則を見つけ、それを身につけるのが稽古である。

合気道の稽古は、稽古相手と稽古するわけだが、稽古の対象相手は稽古相手ではなく、宇宙ということにならなければならない。この気持ちの切り替えができないと、対象を間違え、相手と争うことになってしまう。座技呼吸法でも、せっかく手を持ちに来てくれる相手は、こちらの協力者である分身のはずなのに、敵と勘違いして倒そうとするから、争いになってしまうのである。

気持ちを切り替えて、相手と一つになり、イザナギ、イザナミになったつもりで、左右の動きから螺旋になり、天之御中主の神、一元の元に結ぶように十字の稽古、天の浮橋に立った稽古をすれば、相手がいて相手がいない稽古ができるのではないか。

開祖は「合気道においては、相手がいて相手がいない。これが合気道の妙味である。」と言われている。(合気真髄)相手がいて相手がいない合気道の稽古をしたいものである。

参考文献  「合気真髄」(植芝盛平監修)