【第106回】 争わない

合気道は勝負のための稽古ではないので、争ってはいけないと教えられている。しかし、実際にはお互いが一生懸命に稽古すれば、たまにはお互いに負けまいと頑張り合い、時には争いになったりして、「表に出ろ」ということもさえあるかもしれない。争いを無くすのは容易ではないようだ。

人類は快適な生存を求めて、長年にわたって争いを繰り返してきている。この数百万年にわたる争いの遺伝子が我々の体内にあるせいか、争いはいけない、避けなければならないと思うようになってきたものの、まだまだ争いは絶えていない。争いがあってはならない合気道においても、その遺伝子が作用しているのか、争い、争う気持ちを完全に無くすのは難しいようである。

合気道は争いのない世界をつくろうとしている。合気道の稽古で争ったりしていては、世界に争いを無くすことなど不可能である。まずは争わない合気道をやっていかなければならない。

合気道の稽古で争わないということは、お互いに争う気持ちを無くして、相手が自然についてくるようになることである。つまり、お互いが争うという次元を超越し、相手が逆らう気持ちをなくし、気持ちよくついてくるようにすることである。それには、人間同士が競い合う次元を超えた、もっと高い次元での稽古をしなければならないだろう。

合気道の動きは、宇宙の動きに一致しなければならないと言われている。宇宙は生成化育にあり、動いており、無限であるので、形とすれば「球」となって動いていると考えられる。合気道の動きも、中心からの遠心力と求心力による球(円)運動が展開される。そうすると「空間全部に立体的な様相が及び、相手と自己とは対立的でなく、相手は自己と一体、自己の掌中にあって、自己からの遠心力と、自己への求心力とによって、全く左右される状態になるのである。」(「合気道」後述)という。

一体和合の気の流れにより、自己の動きの中に相手を入れてしまえば、相手は自然と逆らう気持ちも失せ、喜んでその流れに身を任せ、無意識のうちについてくることになる。これが「球」の動きというものだろう。

しかし、そうと分かっても、実際には相手に逆らわさせず、相手が喜んでついてくるように「わざ」をかけて動くのは容易ではない。何故ならば、この目標が頭で分かったとしても、合気の体と「わざ」がある程度のレベルに達していなければ出来ないからである。

手足と腰が切れることなく、しっかりと結び、肩を貫いた力(呼吸力)で相手と結び、相手と合気し、一つになれなければ、始まらないことである。二人が一体和合すれば、あとはその一体和合が分裂しないようにすればよい。それには、宇宙の法則に逆らわないように、支点を動かさず、しかし支点を変えながら、陰陽で動いていかなければならない。そうすれば相手が崩れ、後は相手を倒そうと思わなくとも、相手は自ら進んで倒れていくことになるから、こちらは倒れるのをちょっと手助けするだけである。

つまり「わざ」の後半は、こちらで何もしなくとも相手が自分で動いて、倒れてくれるものだ。このような状況になると、相手は対立的な心を消失してしまい、こちらの思い通りに自由に動いてくれることになる。相手と自己の周り全体は遠心力と求心力、つまり呼吸力で満ちる。これを「球」の動き、宇宙の動きと言うのかも知れない。しかし、こちらが相手を痛めようとか、苛めてやろうなどと考えると、相手は途端に防衛本能や生存本能に目覚め、そうされないように頑張ってしまって、争いになる。それゆえ、「わざ」をかける方も、宇宙の動き(法則)に身を任さなければならないのである。

合気道で争わない稽古をするには、顕界(日常の世界)を離れた、次元の高いところでの稽古をしなければならないようだ。

参考文献  「合気道」(植芝吉祥丸著 植芝盛平監修  光和堂)