【第103回】 一体化

今の世の中の主流をなしているのは、西洋的な対立概念である。神と人、天と地、宇宙と人体、肉体と精神、過去と現在と未来、遠心力と求心力などなど、物事を分離し、対立して考えている。

これに対して合気道では、分離・対立でなく、すべてのものは一体であり、一元に帰すと考える。西洋的概念の分離・対立に対する合気道の概念である一体化の例を、幾つか挙げてみたいと思う。

西洋的な概念では、神とは絶対的なもので、人から遠いところにいると思われているようだが、合気道では、神は人間の生宮(いきみや)に集まると考え、一体化できるものと考える。開祖は「神とは生宮を通して、初めてこの世に現れるのであります。人間の造った木のお社にさえ、神々が集まるのですから、神の子たる人間の生宮に、神々の集まらないわけがありません。」と言われている。(武産合気)

天と地は、空と地上のことで、空は頭上にあって高いところ、地は足下にある低いところと考えるが、開祖は天地は一つであると言われる。曰く、「私が祝詞を奏上して神々を拝むと、天地一つになる。天は高い処にあるように思ったが、実は天も地も一つであります。」(武産合気)

宇宙も人体も、同じであるという。開祖は、これを知らなければ合気は分からないとまで言われている。その理由は、合気は宇宙のすべての動きより出ているからだという。中世のヨーロッパにも「大宇宙」と「小宇宙」(人間)の考えがあったようだが、西洋では宇宙と人体が一体化の道には進まず、分離、対極の方向に行ってしまった。

これまでは肉体と精神は全く別ものと考えられていたが、東洋的概念、そして合気道では、肉体と精神は別々なものではなく、非常に密接(一体)なものであると考える。だから、体を鍛えれば精神も鍛えられるし、精神的な状況によって体の状態や働きも変わる。合気道では、体は精神によって動き、肉体は精神を守らなければならない、と言われている。これを、魂が魄の上に来なければならないという。そうなれば物質文明社会から精神社会に変わり、いい世の中ができるというのである。

「合気道には時間も空間もない。日本の神代からの歴史は、悉く自己一身のつとめの中にあるのです」と開祖は言われる。合気道では歴史的な時間も、膨大であり微小でもある空間も凝縮(一体化)したような稽古をしなければならない。つまり、合気道の「わざ」や思想には、過去も未来も入っていて、例えば100年後に地球の果てでその「わざ」を使っても、またその思想を人が聞いても、古さを感じないということになろう。

物質文明の世の中では、パワーがあるものが弱いものを牛耳る世界といえる。パワーとは西洋流に言えば、出す力(遠心力)か引く力(求心力)である。これを鍛えるには、このような力を分離して鍛えることになる。合気道はこの遠心力と求心力を別々に分離して鍛えるのではなく、一体化して鍛える。この一体となった力を「呼吸力」という。従って呼吸力を養成するのに、遠心力と求心力を分離した稽古をしているのでは意味がなくなる。

合気道では、陰陽は大事である。働くところは陽であり、働いていないところは陰である。また、表に現れるのは陽で、隠れているとことが陰ともいえる。合気道でもはじめは陰と陽が明確にあるが、働いている陽が極まれば陰に変わり、陰が極まれば陽に変わることになるので、陰陽は区別はできなくなり、陰即陽、陽即陰と一体化してしまう。従って陽を陽、陰を陰だけで使っていては合気道にならないことになる。

陰陽をはじめ、呼吸力、時間と空間、精神と肉体、天と地、神と人が一体化するだけでなく、これらすべてのものは一元に繋がるという。開祖は「結局、複雑微妙な生命の働きも一元の神より起きるのです。」と言われている。一体化の極限は一元化ということになるだろう。

合気道の稽古を見ていても、技がうまくできない者は体と心、陰陽、呼吸力などが一体化せず、バラバラになっている。開祖のように一元に帰せないまでも、まず一体化をこころみるべきであろう。一体になるためには、一体になるべきものを見つけ、それを一度意識して分離し、それから一体化する稽古をすれば、一体化ということが分かるかも知れない。ただ漠然とやっていたのでは何がなんだか分からず、一体化は難しい。

一元に向かって、対立ではなく一体化するよう練磨しよう。


参考資料:「武産合気」(高橋英雄著)