【第101回】 西欧人の深い合気道観

「現代は物質、魄の世界である。しかし魂の花が咲き、魂の実を結べば世界は変わる。いまや精神が上に現れようとしている。精神が表に立たねばこの世は駄目である。物質の花がいまや開いているが、その上に魂の花、魂の実を結べばもっとよい世界が生まれる。」(合気真髄)

このようなことを言われておられた開祖の晩年は、世界が大きく変わろうとしていたときでもあった。ベトナム戦争があり、国内では大学がデモで閉鎖になったり、これまでの価値観が大きく崩れようとしていた。それまでの西洋の伝統や制度など既成の価値観に縛られた社会生活の否定や、自然への回帰を提唱、西洋文化の行き詰まりであるという主張がなされた時であったのである。

それまでの社会で閉塞感を感じた多くの西欧のアーティストや若者が、伝統的な社会・制度などに反発して、東洋の思想や宗教を求め、チベットやインド、日本へやってきた。中には、合気道に自分の探しているものを見つけた人々もいた。彼らは合気道の中に、それまで西欧になかった哲学や思想を見つけ、驚嘆したのである。今世界中で合気道が盛んになっているが、彼らの多くは西欧にはなかった哲学、思想に魅了されて合気道の修行をしている。

ここにご紹介する書物は、74年頃にアメリカで出版されたジョージ・レナード著『魂のスポーツマン』というものだが、その中の一章である「合気道と西欧の心」から選んだ文章を下記に抜粋した。著者はアメリカのジャーナリストであったが、1970年に合気道を知って、その後も稽古を続け、合気道も教える教育家として活動した。最初の合気道の師(ロバート・ナドゥ氏)は植芝盛平翁の70歳代後半のとき、本部道場で2年半稽古をしたという。本書を見ても、ナドゥ氏が相当真剣に稽古をして、帰国後にレナード氏など弟子に伝えていったかが読み取れる。

以下の文章には、彼らが合気道を知って感じた驚きや、そこにある思想や哲学こそ、彼らが求めていたものであったことがよく表れている。「物質、魄の世界である」現代社会に生きている彼らだが、それでは満足できなかったのであろう。開祖の思想は大きい影響を与え、考え方を一変させた。引用箇所を読んでも、彼らが非常に深いところまで合気道を理解していることがわかると思う。

「合気道と西欧の心」:
〇 「合気道には試合が許されていない。試合は宇宙の形態とは相容れないし、自由で無制限であるべく修行に制限を加えてしまうからである。稽古は相対するものと競い合って学んでいくのではなく、和合することによって学んでいかなければならない。」

〇 「合気道の基本には西洋的な『対立概念』というものがない。西欧のものの考え方の基本は、神と人、自分と他人、肉体と精神など、ものを対立させて考える。合気道では神人合一を理想としたり、相手と自分が一体化したり、肉体を精神でコントロールしたり、また遠心力と求心力を合わせた呼吸力など対立するものを和合する。」(注:一部言葉を補足)

〇 「合気道では自分自身の感覚と認識、主体的な能力を最高に評価する。西欧では、自分自身の奥に根ざした感覚よりも、目の前にある科学的<道具類>を信用するように教育されている。換言するなら、人間臭が薄れれば薄れるほど、それは真実に近くなるのだ。合気道は、人間の肉体を本来あるべき地位に押し戻してくれるやもしれぬのだ。」

〇 「西欧流の体育教授法は、あらゆる動きを分析しながら、テクニックの一つ一つを可能な限り細分化していくが、合気道の大部分の技は、いくつかの要素が融合した、ある単純な動きに集約することができる。そして合気道の原理は、ゴルフ、ドライブ、子供のしつけ、仕事、セックスなど、要するにあなたの生き方そのものに影響を与えることが可能である。」(開祖が、合気道は"武道のもと""総合武道"などと言われていたことをいっているのだろう。)

〇 「あらゆる行動にはそれぞれの原因と結果があると考える。しかし合気道においては、完璧な動きがあらかじめ存在しているように、すでに生起しているのである。この宇宙には流れがある。そして、われわれが為すべきはそれに加わることなのだ。受けに攻撃された場合、肉体、両腕、両手はすでに生起している動きに従うだけなのだ。投げる者と投げられる者を切り離すことはできない。両者は一つの動きの中で融合し、存在の無限の海原におけるさざ波と化してしまうのである。」

〇 「ピタゴラスは、コスモス(宇宙)を追及することにより、われわれ自身の心の内にそれを再現することが可能だと言うが、合気道においては、この<信念>が逆転され、われわれの肉体の経験を通して、コスモスを理解するに至るのである。」

〇 「物理的肉体に付加された霊的肉体は、熟達すれば自分の意志で動かすことのできる、神秘的な霊的重量。このような多様性の観念ほど、<単一なる視野>に必死の思いでかじりついている西欧人にとって理解しがたいものはない。にもかかわらず、この多様性こそが東洋思想およびその神秘的な伝統文化の中心に位置しているのである。」

〇 「合気道の美徳は鍛錬に、攻撃者との穏やかな調和を目指す不断の規律正しい鍛錬にあるのだ。攻撃者がやり遂げたいと思うことを果たす手助けをしてあげるのだ。その行為が完成するまでに、相手は必ずや自然の調和の内に組み込まれてしまう。もしわれわれが周囲の人々の意図や欲求に100%応えることができるなら、攻撃を仕掛けてくる者がいなくなるのも事実であろう。」(これが開祖がいわれる、「相手の仕事の邪魔をしない」、「我はすなわち宇宙」ということだ。)

〇 「われわれは今や、現状維持のみを目指す<主観的>かつ無価値な哲学に反旗をひるがえすべきである。苔むした二元論にはもううんざりだ。われわれはエゴや、力と力のぶつかり合いや、神と悪との対決の代わりに、平衡と調和と感受性と和合の業を必要とするに違いない。和合を求める時が遂にきたのだ。しかもそれは、どこか遠くの場所で起きるのではない。ここで、私の肉体と存在の中で、そしてあなた方の中で生起するのである。」

注:(  )は筆者註

西欧にもこれだけの合気道観を持って、真剣に合気道を修行している人たちがいるわけだ。われわれも顧みて、さらに修行に励みたいものである。


引用文献  『魂のスポーツマン』(ジョージ・レナード著 日本教文社)