【第100回】 相手を見ない

かつて開祖が道場で我々に稽古をつけて下さった折には、よく「相手を見てはいかん」と言われていた。剣道では、相手の目を見ろとか、剣を握っている拳を見ろなどと言われているのと大違いである。『合気真髄』にも、「相手が木刀を持っている。相手を絶対に見ない。合気は相手の目を見たり、手を見たりしてはいかん。自分の心の問題。絶対に見ない。こういう具合に・・・・。いわば法華経の念彼観音力である。」と言われている。
開祖は、相手を見てしまうと「気」を奪われてしまい、十分働けなくなるといわれていた。

史上最速の男と言われる100メートル走者、ジャマイカのアサファ・パウエル選手は、100メートルを9.74秒で走る。彼は世界記録を自ら何度も更新してきた世界記録保持者でありながら、オリンピックや世界選手権での優勝はないそうだ。それで「無冠の最速男」と呼ばれている。2007年に世界選手権大会が大阪であった。パウエル選手は彼のライバルであるアメリカ人選手のゲイ選手と走ったが、彼よりタイムのよくないゲイ選手に負けてしまっている。

パウエル選手の回想によると(NHKテレビ)、「まずゲイの脚が見え始めました。自分は速く走っているのに、どうなっているんだと混乱しました。」と述べている。隣を走るゲイ選手を見てしまったために、ゲイ選手に心を奪われてしまったのである。その結果、世界最長と言われる通常のスライド2m60cmが2m40cmにまで縮まり、体の軸が崩れて、手の指が通常の時のように開かずに握ってしまい、全身がこわばってしまったのである。(写真右)

規則正しい筋肉の活動は、主に脳ではなく、脊髄からの指令で行なわれるといわれる。速く走ろうと意識して走ると、この脳からの指令が邪魔をして、脊髄からの指令に乱れが生じる。そうすると、本来規則正しく前後に、交互に働く筋肉が、前後同時に働いてしまう「共縮」という現象が起こって、走りが遅くなってしまうのだそうである。(同NHKテレビ解説)

アメリカのオリンピック選手の陸上コーチとして長年アメリカ最速走法に関わってきたローレン・シーグレイブ氏は、パウエル選手の負けたときの映像を見て、「レースでは、トンネルの中を走るように、他のレーンで起きていることを忘れて、自らの走りに集中し、自らがもっているもの全てを発揮しなければならない。」とコメントしていた。

合気道の稽古でも、やはり相手の目や手を見ないようにしなければならない。目で見るということは、「脳」を使うことになり、筋肉の「共縮」を引き起こすことになる。筋肉が「共縮」を起こせば、強靭な力が出ないだけではなく、相手を感じることもできなくなる。相手は見るのではなく、体で感じるのがいい。見ているものは錯覚かもしれないが、感じることは真実である。とりわけ武術は目の錯覚を利用したものとも言えるので、目に頼るのは危険でもある。

相手を見ないということは、目がなくてもいいということではない。武道の稽古であるのだから、目は必要である。開祖は、相手の全体を包み込むように見ろと言われていた。つまり目で見るのではなく、目で感じろということのようである。稽古では、相手を見ないで、頭の「脳」ではなく脊髄の「脳」でやれということだろう。


資料    『合気真髄』
映像資料  NHK総合テレビ