【第7回】 歌と踊り

歌と踊りを持っている民族は素晴らしい。
一日の労働の後で、踊り、歌うことができればなんと楽しいだろう。
また、自分のうれしさ、楽しさ、悲しさを表現できればずいぶんと楽だろう。
歌や踊りは、自分のうれしさ、喜び、悲しさ、恋心などを、自分や仲間の気持ちを表現するものであろうと思う。

古代の日本には、歌垣があった。少し前までは、村々に盆踊りなどの踊りが身近にあったものだ。
近頃では、歌も踊りも専門家(プロ)の歌手やダンサーのものになってしまった。
現代の日本は、歌は聴くもの、踊りは見るものになっている。イヤホーンでCDやテープを一人で聴いている人も車中で多く見かけるが、なにか侘しさを感じる。

自分の悲しさ、楽しさを表現する方法がなくなってきているのは不幸である。日常の生活のなかでエネルギーの発散の場がないので、澱のようにたまっていく。これがストレスになる。
カラオケで歌を歌うのも、ハワイアンや日舞、フラメンコを踊るのも、いいことには違いない。しかし、大切なのは上手く歌うことではなく、自分の内なる気持ちを表現することであろう。

自分の気持ちを表現するには、歌や踊りの他に、武道もよい。武道でも自分を表現できる。いや、武道こそ自分を表現するものでなければならない。
すべて技や動きには、自分の気持ち、哲学、人生観、世界観が表われるものだ。

合気道でも自分のやっている技や動きは、自分を表わし、自分の人生観や哲学・宗教観をも表しているから、安易な技や動きでは相手からも見ている人にも、それくらいの人物かという目で見られることになる。心して稽古しなければならないし、自分の哲学、宗教観を深めていかなければならないことにもなる。

例えば、相手を押し付けたりするのは、相手の領分を侵す侵略的行為であるが、それを当人は某国のように平気でやっていても気づかないのである。本来は相手と争わない、相手の領域をおかさず、自分の領域も侵されない平和的なやり方をしなければならない。これさえ分かれば地球が平和になるのにと思うのだが、どうも争わないとエネルギーが消化できず満足できないのかもしれない。

修行する者は、この合気道にある深遠な哲学を汲み取り、これからの世の中に役立てて行こうではないか。