【第6回】 和

聖徳太子の五箇条のご誓文にあるように、日本は和をもって尊しとなす国である。日本人は、我慢できる範囲ならできるだけ他人に合わせようとする。けれど、世界にはそうでない国も多い。特に西欧は原則的に競争の社会であるので、他人を思いやるよりも自分を主張することに重点を置かなければ成功者になれない、厳しい社会である。

和とは融合でもある。和と融合から物事は生まれ、発展する。強いものが弱いものをつぶしたり、牛耳ろうとしたら、新しいものは生まれないだろう。世の中は、ある分野、時間、条件のもとではどうしても強弱、優劣がある。これは事実である。問題は、強者、優者が弱者、劣者にどう対処するかである。

合気道では、二人で同じ技を交互にかけあいながら練磨するが、強いものが弱いものを力で思い通りにしようとすれば、弱い方はその場では屈服しても、気持ちは反発するだけである。納得して制圧されるのとは全く異なる。それに、強い方も、稽古から学ぶことは何もないばかりか、どこか満足できない感じを抱いたまま終わることになる。

力で相手を押さえ込もうとする時、押さえ込まれた相手は、たとえ押さえ込まれても真から満足できない。人が満足するのは、無理のない、理合の力と技に接した時だけである。例えば、取られた手で四方投げなどの技をかけるとき、相手の領域に侵入せず、侵入されず、二者の境界線上で和したうえで、技をかけていかなければ苦労することになる。

技をかけるときは、相手と融合しなければ、技はかかりにくい。二つのものが二つのままでは、争いがあるだけである。二つが融合してはじめて一つになり、思うように動けるようになる。力で相手を弾き飛ばしたり、ねじ伏せるのは、二者が争ったままの状態が続いているに過ぎない。