この論文も目標としていた1000回を残すところ2回となった。やるべき事、やりたい事、書きたい事はまだまだあるようで、1000回で満願ということではないが、ここでこれまでの論文の締めくくりをしてみたいと思う。どのような思いから書き始めたのか、何を目指していたのか、何を学んだか等をまとめてみたいと思う。
研究論文は四テーマに分かれているがこの「高齢者のための合気道」は他の論文と比べて異質であったように思う。この論文を書き始めた20年前は60才ぐらいで元気いっぱいの若者であったので、高齢者の事や己が高齢者になるという事も想像しなかった。それ故か、当初は「高齢者のための合気道」と直接関係ないような事を書いていたようだ。しかし、本人はそのテーマに合うように書きたいという気持ちと回が進むにつれてこのテーマに近づき、マッチしてきている事が分かる。
「高齢者のための合気道」の意味することは、高齢者になり更に上手く強くなるためにはどのような合気道をすればいいかという事である。身体的と技術的な事は他の論文で書いてきた。
合気道は技を形と動きで表わすのでその出来栄えは一目瞭然である。いい技はいい、下手な技は駄目なのである。しかし、稽古を続けている内にいい技をつかうためには合気道だけでなく、人間性の精進も必要である事が分かってくる。この論文に数多くの絵画展や宝物展を訪れたことを書いたが、それは最高のモノを見ることによって己の美的センスを養いたいのだと思ったのだと考える。また本も読んだが、己のまだまだ狭い人間性を拡げようとしたのであろう。当時は、そんなつもりで見たり読んだりしていたわけではないが、無意識のうちにそうしたわけである。
このような経験と合気道の道場稽古、毎朝の禊、繰り返して読んでいる『武産合気』『合気神髄』が結びつき、いろいろな事が分かってきた。
一つは、高齢になればなるほど腕を上げることができるということである。これこそが合気道の武道としての醍醐味であるし、いくら年を取っても修業する意味があるということである。
次に、高齢になっても腕を上げるためには、宇宙と一体化しなければならないということである。宇宙の営みを形にした技をつかい、宇宙の意志(宇宙楽園建設)に心を合わせた修業と生活をするのである。若い頃のように肉体主体の技づかいでは駄目だという事である。
もう一つ、高齢者の大乗的な修業と生き方である。自分を鍛える事、腕を上げるという事は自分のための小乗の修行であるが、この後は、後進のためにも、人のためにも、世の中のためにもなるような修業、大乗の修業をしなければならないということである。しかし、自身はまだこのレベルにないので、次のステージで挑戦するつもりである。
更にもう一つ分かったことを加える。実は合気道を始める前から考えていた事があった。自分は何物なのか。何処から来て何処へ行くのか。この世でなにをすべきなのか。存在する意味があるのか等である。これらの疑問はこの「高齢者のための合気道」を書いている20年でほぼ解決した。自分も、万有万物は使命をもって生まれ、活かされているということが分かったのである。
この999回の後に最後の1000回が残っているわけだが、そこでは1000回以降どうしたいのかを記すことにする。