この論文も目標としていた1000回を残すところ2回となった。やるべき事、やりたい事、書きたい事はまだまだあるようで、1000回で満願ということではないが、他の3論文同様、ここでこれまでの論文の締めくくりをしてみたいと思う。どのような思いから書き始めたのか、何を目指していたのか、何を学んだか等をまとめてみたいと思う。
まず、やるべきことを一つ一つやって身につけ、それを20年間続けてきたことが上達につながったのに間違いない事である。やるべき事は心身と何ものかが教えてくれたのである。その内容や順序は論文にある通りである。
故に、上達するためには継続、続ける事と、そして毎日やる事が必須であるということになる。
不思議な事に、やれば必ず上達するものである。それは合気道だけでなく、音楽家でも、絵描きでも、科学者でも同じようだ。何かが上達するよう、上手くなるように導いているように感得する。その何ものかは下手になるようには導かないようである。何ものかの声に耳を傾け、教えに従い、そして感謝してきている。
合気道の上達とは何かというと、技や体のつかい方が上方に変わっていくことと考えた。肉体主動で技をつかう→息で技と肉体をつかう→気で肉体と技をつかう→魂が技をつかうである。つまり、魄→息→気→魂の次元の稽古である。魄の稽古は誰もがやっているので問題ないが、気の次元の稽古に入るのは容易ではない。故に、気の前に息で技をつかう稽古をしたわけである。息の稽古の基本はイクムスビで、これで息を吐き→吸い→吐くとつかいながら、手を縦→横→縦→横→縦とつかうのである。これは縦と横の十字の体づかいであり、十字の息づかいである。そしてこの十字から気が生まれるので次の気の次元に結び、入れるわけなのである。このイクムスビが最適な気の次元への入り口と考える。
もう一つの次元があり、研究した。これも合気道の上達のためには避けて通れないものである。
それは顕界―幽界―神界の次元での稽古である。顕界は現界で目に見える世界である。幽界は気の世界、目に見えない世界である。神界は神の世界である。顕界は魄の世界、幽界は気の世界、神界は神の世界であり、その“ワザ“は魄の技、気の技、神技となる。
勿論、合気道の目指すワザは神業である。神業とは、神のような技(宇宙の法則に従った)、神とともになる技、そして神の業となるのである。
しかし最近分かった事は、この神業がでるためには、魄、魄の力、顕界の稽古が思っていたよりも大事であるということである。魄が頑強でなければ気も出ないし、魂も生まれないし、神業も働かないのである。それで改めて魄を鍛える事になったのである。
もう一つ、上達に欠かせない事を見つけ、身につけた。それは布斗麻邇御霊である。大先生はフトマニ古事記を「フトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。」と教えておられるが、はじめはチンプンカンプンで手のつけようが無かったが、偶然、ある本に出会い布斗麻邇御霊を知ることになったのである。この偶然の出会いに驚くと共に、何かが助けてくれているのだという事を感じるようになった。
布斗麻邇御霊を技に取り入れる、技を布斗麻邇御霊でつかうようになるには2,3年掛かったように難しかったが、何とか身についた。そして分かった事は、布斗麻邇御霊、フトマニ古事記無くして合気の技はつかえないだろうということである。宇宙との一体化も神業もこの布斗麻邇御霊と大いに関係があるからである。
1000回までの状況下では神界や神業の域に入る事はできなかったので1000回以降ということになる。
因みに、この999回の後に最後の1000回が残っているわけだが、そこでは1000回以降どうしたいのかを記すことにする。