【第998回】 合気道的に生きる

ここの論文のテーマは「高齢者のための合気道」である。60年に亘って合気道を続けてきたわけだが分かった事がある。若者は若者のための合気道を、高齢者は高齢者のための合気道をやらなければならないということである。換言すれば、若者は若者らしく、高齢者は高齢者らしくやるということである。若いのに老人のような稽古(気が抜け、力が抜けた)をしたり、高齢者が若者のような稽古(闘争的、腕力主体)をしないことである。故に、自身は今現在高齢者らしい稽古をしているつもりである。

自身の体験から、若者の稽古は余り問題ないように見ている。若者はエネルギーが余っているし、闘争心に満ちているからである。若者に備わっている本能なので何も考えたり悩む必要はないのだろう。
それに対し、高齢者の高齢者らしい稽古は容易ではないだろう。人は己はいつまでも若いと思っているし、力の衰えや高齢者であることを認めたくないという傾向にあるからである。これが高齢者らしい稽古であるとするのも難しいだろう。己自身だけでなく、稽古相手、周りの人々が納得するようでなければ高齢者らしい稽古、つまり技づかい、体づかいの合気道であるとはならないと思うからである。

それでは高齢者の高齢者らしい合気道とはどのようなものなのかというと、それはこれまで稽古してきた中にある。
それを一言で云えば、“宇宙天地に合わせて息と技と体をつかう”となるだろう。合気道の教えでの“天火水地”で、天と地の間に立って息と技と体をつかうこと、また、“布斗麻邇御霊”の水火の営みに合わせて、息と技と体と技をつかう等である。
この稽古から気が生まれ、気がつかえるようになるはずである。若者は腕力に頼るが、年を取ってきたら腕力を気力や魂の力に変えていかなければならない。さもないと体を壊すと大先生は警告されているのである。敢えて言えば、高齢者らしい稽古とは気の稽古、魂の学びの稽古と言ってもいいだろう。

さて、高齢者は高齢者らしい稽古をしなければならないと書いたが、更に大事なことがある。それは、高齢者は高齢者らしく生きるという事である。合気道の稽古の時だけでなく、日常生活の場でも高齢者らしく生きるということである。
これも一言でいってみると、“高齢者は合気道的に生きる”となるだろう。
これまで合気道で学び、身につけてきた事を日常生活で活用するということである。更に言えば、合気道の稽古と日常生活を繋ぎ、一緒にしてしまうことである。例をあげれば、まず、高齢者がどう生きるか、何を目標に生きるかに対して、合気道の目標である「宇宙との一体化」「地上楽園建設のお手伝い」となる。「宇宙との一体化」は、己と宇宙との物質的一体化と精神的な一体化である。天と地の中に身を置き、天地からエネルギーを貰い、天地の呼吸に合わせて己の息づかいをするのである。食べ物も天地の恵みでありエネルギー(生命力)の基である。天地に感謝して頂かなくてはならない。
また、人体は小宇宙と言われるように、宇宙と同じように創造され、営まれるという。故に、宇宙の営みに則った体のつかい方をすればいいことになる。
例えば、手足は陰陽でつかう、体は裏を土台にし表をつかう等である。この法則を崩すと、動きは止まり、力が働かなくなる。
また、息は布斗麻邇御霊の水火に合してつかえばいい。口、鼻、腹、胸での息づかいで体に気が満ち元気になるし、体が柔軟になる。

最後に、高齢者が高齢者らしく生きる上で重要なことは、年を取ってよぼよぼになっていくこと、退化することではない。合気道で高齢になっても若者が叶わないように強くなっていく、上達するのである。年を取ればとるほど上達するから修業を続けるのである。日常生活でもそうなければならないと考えている。本当の名人達人は高齢者である。これらの好例を記してきた。これが高齢者らしい生き方であると考えている。